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雪の女王の赤い靴

旅行写真 | 060101

なにげなく TV を見たら NHK でアニメ「雪の女王」(http://www3.nhk.or.jp/anime/snowqueen/)をやっていて、あー出崎演出、安心するー、とか思いつつ見たが、今回 11 話「赤い靴」のエピソード自体にちょっと感銘を受けてしまったのでメモ。赤い靴については、アンデルセン氏の童話が原作なのは知っているが、いろんなパターンで紹介されていて、どれがオリジナルなのか知らない。ちょっと前にやたら萌え絵な児童絵本がネットで話題になったりした(たぶんこれ→http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4522181140/)。

原本では主人公のカーレンが教会に赤いエナメルの靴を履いていったのを咎められ、教会の入口にいた赤ひげの老兵に「ダンスをする時はしっかりくっついているんだぞ」と呪文をかけられてしまいます。すると赤い靴が勝手に踊りはじめ、靴を脱げないまま夜も昼も、雨の日もずっと踊りつづけ、天使にも「いつまでも踊りつづけるのだ」と言われてしまいます。疲れはてたあげく、首切り役人のところにいって「どうぞこの赤い靴を私の足ごと切ってください」と頼みます。その後、義足と松葉杖で教会の奉仕を続け、最後は天使に許されるという少し怖い物語です。

このお話は、『赤い靴』というアンデルセンの童話で、カーレンという貧しい女の子が主人公です。カーレンが、教会に赤い靴を履いていくという不謹慎な事をしたためか、その赤い靴を履いて、舞踏会に出かけ、踊りはじめると、靴がひとりでに踊りだします。驚いた彼女は、靴を脱ごうとしましたが、脱ぐ事ができず、とうとう雨の日も晴れの日も、夜となく昼となく踊り続ける事になります。やがて、ある日首切り役人に訳を話し、両足を切ってもらいました。カーレンは、これほどつらい思いをしたので、いい人間になったのではないかとおもい、教会へ行こうとおもいます、しかし、しばらく行くと、なんと、赤い靴が前のほうを踊っていくではありませんか!恐くなった彼女は、ひきかえし、今度こそ本当に罪を後悔します。やがて、改心した彼女の魂は、お日様の光にのって神様のもとへとんでいきました。

という童話です。

参考文献 『アンデルセン童話集(二)』大畑末吉訳 岩波書店

で、それは置いといて、おれがびっくりしたのはアニメ版での描かれ方だ。

雪の女王」でのカーレンは、信心深く正直貧乏な父を支えるため幼い兄弟の世話をして慎ましく暮らしていたが、信仰と現実の落差に疲れ果て、もうかなりいやになっている。そこへ降って湧いたセレブパーティへのチャンス。当然とびつく。が、祖母の葬式を途中で抜け出して参加したことがバレて一気に転落。この、カーレンの「いやになり具合」が実にいい。ついには家を飛び出す→伯爵夫人登場→赤い靴プレゼント→一旦家に戻るが父とはわだかまり→翌朝靴を再び履いてみる歓喜→葬儀の途中にパーティの使者→兄弟を振り切って参加、というステップの踏み方も、貧しさ苦しさかたくなさなど、どうにもならない心情をよく描いていて素晴らしい。夢のような舞踏会、一転して伯爵夫人の叱責。目の前で崩れていく夢。「伯爵夫人様、あそこへ戻れというのですか!」、この「あそこ」へ込められたイメージ。血の叫びだ。しかしまだ軽い。伯爵夫人は街一番の金持ちだが所詮人間、人間への叫びで魂までは震わさない。そして呪い発動、踊りが止まらなくなるカーレン。靴にひきずられ踊らされながら会場を飛び出し、祖母の眠る墓地まで。ついにカーレンは神を呪う。「神様、私が間違っていたというのですか、私はただ赤い靴が欲しかっただけ。それが間違いだというなら、私を殺してしまえばいい!」。雷が落ち、燃える木が止まらないカーレンに向けて倒れ掛かってくる。

とにかくすごいと思ったのは、あらゆる容赦のなさだった。手心が加わってないかんじ。手心というのは作者というか物語というか、シーンの要請する御都合のこと。父の優しさ不甲斐なさ、カーレンの渇望、伯爵夫人の善意と立場、すべてわかるし正しく仕方ない。悪意などなくとも最悪の事態は訪れる。事態が起きればなにかが悪かったのだろうということになり、強いて探せば父の甲斐性のなさがカーレンの渇望を煽り、伯爵夫人の善意がそれを爆発させたということになる、が、そんなことで彼らの心を断じることなどできない。父は正しい。彼はすべての状況で彼なりの正しさを選んでいる。伯爵夫人もまた正しい(彼女が「貧乏人の心を弄ぶいやな金持ち女」として描かれなかったこともまた本作の一流たる由縁だ)。伯爵夫人に告げ口した御者もまた正しい。カーレンの破局は、そのような正しさの連鎖によって起きた。カーレンの選択した無理によって一時歪められた道理は最終的に修正され、その修正前後のギャップは一度にカーレンの身に降りかかった。彼女は自分で作った亀裂に飲み込まれたのだ。カーレンは、確かに間違いを犯してしまった、が、それを罪だと思うことがおれにはできない。哀しい少女ではないか。「あそこへ戻れというのですか」の切実さ。なんという言葉を吐かせるシチュエーションか。「私を殺してしまえばいい」とまで叫ぶ絶望。自分を殺せというのは造物主に人間が投げかけることのできる最悪の言葉だが、それでも、神を信じていない者に神は呪えないのだ。

伯爵夫人の行動を妄想補足すると、彼女がカーレンに近付いたのは偶然で、善意だ。貧しい少女に靴をプレゼントし、舞踏会に招待する。それもただ金持ちの道楽としてではない。彼女には娘が居らず、カーレンのような娘が欲しかった。無色の善意でなくギヴ&テイク、ある種の取り引きとしてカーレンにシチュエーションを提供することは、カーレンを一人前の人間として扱う伯爵夫人の公正さでさえあったと思える。そして彼女がカーレンの祖母の葬儀の件を知り、カーレンに「帰りなさい」と告げるとき、その背景は単純でなかっただろう。カーレンはダンスパーティに光しか見ていなかったが、上流社会には影もある。ゴシップ、スキャンダル。カーレンの社交界デビューは最初から穢れてしまっていた。どこからか噂は広まり、あの晩を穏当に過ごしたとしても、カーレンは遠からず失墜することになったろう。そしてそんな少女を後見したとなれば伯爵夫人の名誉にも傷がつく。ここはもう伯爵夫人自らカーレンを裁くよりほかになかったろう。しかし大事なのはそんなことではなく、伯爵夫人のカーレンに対する失望だった。彼女はカーレンを弄んでいない。靴はただのプレゼントだったし、パーティへも強引に招待したわけではない。無理をして飛びついたのはカーレンのほうだった。そしてそのカーレンの無理の裏側にある貧しさと切実さは、わかる。伯爵夫人はカーレンに対し裏切られたと感じただろう。彼女はカーレンの家庭を知らない。彼女の貧しさもわかるまい。わからないなりに考えはあるだろう。あるだろうが、そういった事情を汲んでの「帰りなさい」ではなかった。彼女はカーレンを叱責したが、それは蔑みではなかった。対等の人間として礼節を説いたのだ。カーレンは彼女の娘ではなかったが、最後の一瞬の手前、伯爵夫人の心はカーレンを娘として見たかもしれない。そのうえで彼女は、あくまで伯爵夫人としてカーレンと決別した。伯爵夫人の行いは正しかったとしかいえない。あれ以外の振る舞いはありえただろうが、あれで十分以上のものだったと評価できる。なにか謂れのない優しさや無根拠な振る舞いでもあれば破局は回避できたかもしれないが、そんなものは望むべくもない。伯爵夫人はただの人間で、神でも超人でもないから。彼女は娘が欲しかったが、カーレンに対して赤い靴を欲したことを責めることができないように、そんな望みを持つなとはいえない。このように欲しても得られず裏切られ傷つく人間のありさまに立ちふさがる運命とはなにか。神の意志か、貧富のギャップか、そんな区々たるものではない、所詮個々の人間はシチュエーションに埋め込まれそこで立ち振る舞うしかないという現実だ。

神が居るとも居ないとも、救いがあるともないともいえないかんじで話が終わる点も素晴らしい。反省して終わりとか、悔い改めて終わりとかそんなんではない。どうであれ人間は人間として振る舞い暮らし続いていくのである。その限りにおいて神の実体など見えなくて、あるともないとも言えない。あの結末がカーレンの正しい因果であったか、またはそれは最後に捻じ曲げられたものだったか、捻じ曲げたとすれば父の手によってだったが、どの程度まで折込済みだったのか、考えても仕方ない。

で、さらにここまでが前置きなのだが、このような話を見せられておれはどうすればいいかというのが本題だ。カーレンにせよ父にせよ伯爵夫人にせよ、彼らの心はわからなくもない。感情移入可能かといえばそうだろう。が、各人の立場に対してまで視聴者が移入していくことをこの作品は拒んでいるように感じる。それができないと気付いたおれの心理が「不可能だ」を「拒まれた」と翻訳しているのだろう。おれはもちろんカーレンでも伯爵夫人でも父でも御者でも弟妹たちでもなくおれだ。憐れみもするし同情もするが、彼らに成り代わって彼らの気持ちを汲んだりはしない。やってはいかんというよりは、やってもしょうがないと納得している。人形ならいざしらず、対等の他人に対してやることではない。逆にいうと「赤い靴」のエピソードにおいて各キャラクタは、おれが他人感を覚えてよいほどビシバシに立っていた。この種の感銘は久しくなかった。これってなんだろうと考えてみたら、先日見たノルシュテイン氏の説教(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20050724#p3)に思い当たった。

その番組中、高畑勲氏が登場して(おれの記憶違いが混じってるかもしれないけど)こんなかんじの話をしていた。「最近の作品は、見る前から得られる感動の種類が提示され、視聴者はそれを選択して見る。作品の主人公の視点に感情移入することが基本になっている。けどもそうではなく、どん底の人間を客観視して「ああ自分はこうでなくてよかった」と見終わってホッとするという作品のよさもある」。キャラクタが視聴者に特定シチュエーションでの気分を疑似体験させるための道具に過ぎないなら、そこに人格はあるように見えても、ない。人格としてキャラクタを描けば、キャラクタに過ぎなくとも、人格らしいものを感じる。作品中の他人だ。そして他人はおれではないので、共感はあっても、制限される。「現在の感想様式で、感想の書きやすい作品 / 書きづらい作品」問題(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20040802#p2)の鍵もそこか。感情移入を通してスルスル書く様式の感想が発展したというわけか。

最近の感想様式上での「感動した」は、何らかの感情に「同意した」ニュアンスをあらかじめ含んでいる。そのことがおかしいんだという主張と受け取った。同意できかねるものに対する感動もある。セットにすることはない。そういったことを頭に入れつつ、もうちょっと考えてみよう。