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恋の門

新宿駅 | テクノフォント

このままだと感想書かないまま何も思い出せなくなりそうなので取り急ぎメモ。

  • 羽生生純氏による原作漫画は、月刊コミックビーム連載時にしばらく読んでいたが、中盤以降は読んでない。
  • 今年のおれはサブカル映画ばっかり見て、これではまるでサブカルのようじゃないか!
    • だからといってそれを理由に「恋の門」を避けて通るようでもまたこだわりでしかない。こだわる動機が自分にないものにこだわるのはおかしい。それはオタ的でない。
    • ていうかアニメにせよ実写にせよ、漫画原作の邦画が多いな今年は。「下妻物語」「MIND GAME」「恋の門」、三本かおれが見たのは。ほかにあったっけ。気のせいか。
  • 見に行こうかなと思った一番の動機は「色合いがおもしろそうかなあ」か(←ポスターとか映像から)。
  • おもしろさのある映画だというところはわかったのだが、そのおもしろさがおれには関係のない映画だった。内容が関係なくておもしろさが関係してくれていると(「恋の門」と並べる映画として適切な気はしないけど「下妻物語」(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20040701#p1)みたいなかんじで)ふつうに見れるのだが、恋の門にそれはなかった。15:00 の回に入って出たのが 17:18 だったから、予告とか CM とか除いて二時間くらいだったようだが、それ以上に上映時間が長く感じられた、体感で LOTR より長かった。てことはあんま没入する余地がなかったんだろう。オタにはおすすめしない。サブカルのひとなら楽しめるだろう。なんか微妙だけどやっぱり「おれと関係のない映画だった」としかいえない。
  • ひとつひとつのシーンやカットはおもしろかったので、すくなくとも退屈はしないかんじ。
  • Nさんの感想はおれとまったく違って、そこがおもしろかった。Nさんにとって恋の門は、内容が関係あり、おもしろさも関係あって、ただ関係がとても強かったので新味はなく、安心映画だったみたい。そういう見方をするひととおれが同時に居るというのは日本文明のひろさよな。
  • 主役のひとは、なかなか印象的な顔立ちをしており、これはこれでアクの強いモテかたしそうないい男だなと思ったが、松田優作氏の息子なのか、ああ言われてみれば似てる。松田龍平氏というらしい。
    • 飲み会で「平成ライダーはイケメンを選ぼうとするあまりキャラクタの濃淡が薄すぎる、松田龍平氏を主役(またはライバル)に起用すべき」という意見が出て、納得。この顔なら光陰併せ持つダークヒーローばっちりだ。
  • ヒロインのひともなかなか好演してるんじゃないかなあと思えて、よかった。でもエロシーンがあんまエロくなくてそこは不満。ももも、もうちょっと見せてくれないと二人の情感の交錯が以前と以後にどう影響していくのかわからないんだな(←執拗にビン底眼鏡をクイクイいじりながら)。
  • なんか演劇とか好きなひとにとっては、出演者がことごとくそんな方面のひとたちなのでオールスター的に楽しめるらしい。おれは全然わからんのでそういうたのしみ方はできず。大竹まこと氏と庵野秀明氏はわかった。
  • 印象的な脇役としてモーションがいちいち怪しい女のひとが居て、そのひとは単純に絵ヅラがおもしろかったので文脈がわからなくてもたのしめた。けっきょく話にはあんま絡んで来ないかんじなんだけど。こういうの怪演脇役っていうのかしら。小島聖氏というらしい。
  • 濃い脇役は多くても、それぞれのひとたちに割ける尺があんまりないかんじで、知ってないと「あーなんかこのひとにもいろいろあるんだろうなー」で流すしかなく、実際のところそうであっても問題ないように設計してはあるんだろうけども、そこで取りこぼしているのかもしれないという感じ方(貧乏性?)が疲労を誘うんだろうと思う。率直に「同じ長さの舞台で見れば、全然おもしろく見れたんじゃないかなこれ」とか思うわけなのだが、しかしやっぱり演劇でなく映画として出てきたものなんだから映画として楽しむのが自然体のすることだよなとも思うしで。
    • つまりおれには、脇役のひとが「印象的」でしかなくて「味がある」までは感じられてないのか。キャラは立ってるんだけど「キャラの立ってる背景」としてしか認識できず、人格として拾えないというか。いや呼吸する人格としては強烈に主張されているわけなのだが、なんだろなーそのあたりで脳内ノイズキャンセラが自動的に魅力を除去してかかるかんじ。それはつまり観方が映画全体向けのフィルタのままでこういう映画用にはカスタマイズされてないからか結局。しかしそういうのが必要とか必要かもしれないとか思うってのはどうなのか。いいのか。わるいのか。そういう評価をするとかしたほうがいいとかいうのもどうか。以下略。
    • このあたりは、映画におけるモンタージュ理論とかそういうレベルで語ったほうがいいことなのかもしれない。舞台にそれはないから、役者のひとの、客の目を引く大仰さが自然体として映るのだろう(あの大仰さはモンタージュ理論の代替というか、大仰さを映画ではモンタージュが代替してるんだろう)。
    • 舞台の場合は、だから主役とか脇役とかいっても、上演時間中に主役を食ってしまう勢いで脇役のひとが活躍する場面とかがあってもおかしくないし、むしろそれくらいのほうが楽しめると思う。そういう余地がある。舞台はフィルムと違って視点が広角に固定されていて、観客がフォーカスするのは「自分が見たいもの」で、それをいかにして誘導し誘導されてゆくかがインタラクティブに楽しめる。
    • 映画を前提としてしまうと、そこいらへんの押し引きがけっこう死んでしまうかもしれない。映画の主役は舞台の主役よりも権限が強いというか。神(脚本とカメラ)に祝福されているので脇役は太刀打ちしようがないという。舞台用と映画用では、脇役の脇役としてのキャラクタの立て方はかなり違ってくるのかも。そういう違いは、どの立場の人間が考慮すればいいのかとかはよくわからない。
    • このあたりの「演劇的な脇役をどう立てるか」について、対比すべきなのは「MOULIN ROUGE!」(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20030907#p1)かもしれない。ロクサーヌの情熱みたいな。忌野清志郎氏大活躍のくだりは、それだったのかもしれないが。
  • 後半のあたりはどこで終わってもおかしくないかんじで怒涛のエンディング可能性リフレインフィーバー大回転か?というかんじだったが、最後のオチは「え?こうやっておわるの?」という一抹の気分がなくもなし。
  • 監督の松尾スズキ氏というひとのことを、おれは名前だけ知っててあとは全然知らないのだが、ていうか映画見終わったあと思い出したのだが、このひとあれだ、いましろたかし「釣れんボーイ」の単行本の帯にコメント書いてたひとじゃなかったっけ。おれの視界内でのつながりはそれくらい。

とはいえ、この映画全体をながめて見たあとに主人公であるところの蒼木門の作っていた「石の漫画」のことを思えば、ああこの映画ってあの石の漫画をよく表現してあったってことかあと納得できるところはある。ゴチャゴチャとよくわからずエネルギーが渦巻き相殺しあい湧き上がり、ひとつのフレームにかろうじて収まっているという。最近はそういうふうに納得することが多い。羽海野チカハチミツとクローバー」のゆるやかな迷走が、漫画全体で「青春の塔」を表現していると考えれば納得できるというようなかんじで。

そのほか雑感。

  • おれは笑わないけどたぶんここは笑うところだよなーというシーンでも、あまり観客の笑い声が印象的には聞こえず。いちおう渋谷で見てんだけどなこれ。渋谷的な映画でないと渋谷で観ても意味ないか。
  • CM で新海誠氏新作「雲のむこう 約束の場所」の予告編が流れて、れいの「ヤバいくらいに号泣したな」(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20040529#p2)のフレーズが引用されてて苦笑。
  • CM でよしもとよしとも青い車」を原作とする新作邦画の予告編が流れて、ええーと思った。なんか映画一本の尺に引き延ばすため台詞とかキャラクタとかシチュエーションとか増やすことで対応してるかんじ。余計なニュアンスが増えるとすっきりさっぱりあっさりでなくなるし、ふくらまなくて逆にしぼんじゃうと思うんだけどなあ。短編だからオムニバスの一本とかにすればいいのに。あとなんか空気感みたいなものに違和感が。こういう映像を作りたいとか、見たいとか思うひとたちが、おれの知らないところにはけっこう居るってことなのかなあ。