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最近のインターネット

  • 「自分の知り合いは誰しも興味があり共有される前提で、内容を問わず前置きなく知人友人の話をし始める」はよく居る困ったひとのパターンで、それ都会か田舎かとかあんま関係なく遍在するかんじがする。というかいつも無前提にこっちが知らないひとの話をしはじめるひとは精神とか知能の障害を疑ったほうがいいような。
    • Twitter タイムラインの反応から見てないアニメのあらすじを推定するゲームのさらに前は、そういやおれと共通ではない知り合いの話をいきなりはじめるひとの話からその人物のひととなりを推定するゲームだったような気がしてきた。そしてそれはおもしろかった。相手がどこまで喋ったらおれがそのひとのことを知らないと気付くかゲーム。うまく相槌を打ち続けて気づかれないまま話が終わったら、ゲームとしては勝ちだが人間関係としては負けなので、どっかのタイミングで「ところでおれそのひと知らないすよ」とつっこみを入れる。
  • ひとは信じたいものを信じるときにそれを恥じたりしないし、というかそれを恥じないでいいと教育されてきている気がするので結構根深い。高意識言語でいうところの「気付き」によるアハ体験で云々するしかない。
  • ザインタの画面をみるたび「誰にもとくに聞きたいことがない!」という自分を痛感する。というか「聞いてみたいことはないんですが、なんか喋ってるの見るのはおもしろいので、なんかしゃべってください」という欲望は強いんじゃないか。
    • おれの愛用フレーズ「なんかおもしろいことないすか」はひろく一般的にも愛用されてる「困ったヤツの常用フレーズ」らしいので、おれはまたしても多数派の枠内に収まってしまった。またしても安心。どうやって不安に陥ればいいというのか。ところでおれの多数派に埋もれる安心感に対する信頼は突き詰めると「どうしても殺される事態に陥っても、おれだけじゃなくて、みんなも一緒に死んじゃうようなら、諦めもつくんじゃないか」みたいな感覚に依拠しているので「皆もろともだろうと死にたくない」という実感を得れば考えが変わるかもだ。
    • どうも昔から「生き延びる少数の側に回れない!」みたいな恐怖に鈍感だ。「死ぬほうが多数なら、べつに死んでもいいのでは」みたいな…。イヤなのは「死ぬ少数の側に押し込まれる事態」で。