最近のアニメ - けいおん!関連
最近ふわふわと生きてるかんじなので、ケイオンについて考えたりしている。…いや、あんまケイオン関係ないかも。
- 音系同人であれば、アマデウスよりラストソングを参照したものが読みたい。
- 唯の世界観の狭さを、かわいさとして愛好するというのは、たしかに、なんかこーおぞましいものがある。だがおぞましいからといってそれが何だ、といえば、「そういうものならそれでいい」としかいえない。
- どこか遠くを目指さぬ唯、というのにはとくに違和感ないし、おれとしてはよくわかる感覚なんだが、ヤング作品よ若者に挑発的であるべしというなら、嘘でもいいから武道館を目指せと焚き付けるほうが正しいという意見にもなる。
- 遠くのものと近くのものをつなげちゃう想像力(世にいう縮地法である)は、遠くのものを近くのものであるかのように扱って空想科学読本に突っ込まれる的な奇妙なシーンも作るが(セカイ系とかいう)、「遠くのものでも近くのものでいいなら近くでいいじゃん、たまには気分転換に遠くのものでもいいけど、いつでも置き換え可能だしね」という解決は、むしろとても普通のことだと思えるし、実際おれはいままでそうして生きてきた。何の問題もない。
- なにかになりたい、という欲望がよくわからない。多くの人間がかつてなにかになりたかったのだ、という話なら、おれは多くの人間に共感しない。いっぽうで、おれのような人間が少なくないことは、おれにとって自明だ。なにか一風変わったことをした結果として、こうなったわけではないからだ。
- 以前「拳児は、拳児読んで拳児的な解決に至りたいと思ったら拳法やらざるをえんのであれはヤバい漫画だ」みたいな話を聞いて、いやまあ拳児はそれくらいすごい漫画だとは確かに思うんだけど、読み手の実感としてそこまではいかねえだろ、と思ったことがあって。
- もっとも、その主張を辿れば「カラテ馬鹿一代」文脈的なものになるんだ、みたいな話なら、「そうですか、そうですね」という話にもなる。カラテ馬鹿一代読んで「おれもマス大山になりてえー」とカラテ始めたひとは多そうだし。
- おれもまあ、セロ弾きのゴーシュ読んでチェロ弾き始めたようなもんだから、読んだものの影響てのは馬鹿にできんとは思うけど。それは同時にきっかけの軽さというか、「ようは何でもよかったものを、何でもはよくなくしていくというその行為に要点があるんだろ」という感覚を補強する。おれは猫をチェロに突っ込んでブイブイいわすためにチェロ練習していたわけじゃない。やってく人間も時場所環境も違うんだから、見えてくるものは当然違う。そこに「同じものを見たい」「見ようとしてしまうはずだ」みたいな錯覚能力を過信したことを言われると、いやそりゃ人間の現実認知を舐めすぎではという素の反応をしてしまう。
- 拳児的境地には拳児だけが辿り着けばいいと思うし、同じことやってても辿り着かんことはあると思うし、違うことやってて似たようなものが見えることはあると思うし。…みたいなことって、べつに「拳児」を読むことによってしか生じないユニークな作品体験ということもなくて、ほとんどあらゆる創作から生じうる普遍的な読者反応ってやつで、そこのボリュームは大きいんじゃないかなーっていう。
- そしてもちろん、辿り着かなくたっていいのだ。そういうことを言い出せば、どう考えても「どこかに到達せず野垂れ死に」みたいな人生のほうが多いはずだしね人類。そのくらいのものなら、それでいいのだ。
子供の頃、おじさんか誰かに連れられて初日の出を見るため山に登って、まわり一面雪で寒くて、ひとがまわりにいっぱい居て、明るくなって、わー出た出たってなって、みんな太陽を見てて、でもみんな立ってる位置違うから、それぞれに太陽の見え方違うんじゃないかと思って、気になるから、山頂のあっち行ったりこっち行ったりして、日の出がどう見えてんのか確認して回ったことがあるんだよね。たぶんあれがおれの中二病の、初期症状。