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最近の読書 - 北方三国志再読

読み終わった。なんか、こんなにきつい再読になるとは思っていなかった。終盤が妙に読み進めづらかったなー。水滸伝のほうがディテールが細かいぶん、きつい印象があったんだけど。趙雲が死んでからは、ちょっと読むのが楽になった。と思ったら張衛がきた。これは大変きつかった。何度も読んでいるわけだから、わかってはいるんだけど、張衛はなー…という、その感慨については、今回それほど深く沈むかんじではなくて、どちらかというと、今回の読み味だと、張衛の虚しさは彼一人のものじゃないよね方面に全体的に分散していったかんじ。

志に取り憑かれたやつが全員死ぬ。北方三国志とはそういう話だ。趙雲が死んで、あーこれで諸葛亮だけになった、だんだん違う時代違う世界になっていった中で、諸葛亮だけが異邦人として生きている状態(いわば三国時代という学校に、ただ一人の邪気眼番長として諸葛亮が留年している状態)、司馬懿とか新時代の新主人公格となるキャラクタも居るし、読んでる側としてもうなにか外伝的な気分になってきて楽になった、と忘れかけたところで現れる張衛。おまえ。思い出させるのか。時代が変わってもそれと関係なく命はあり、命と関係なく時代は進んでいく。なんと間の悪い死に土産。でも、それでいいんだよ。志の話だからだ。マリみてみたいなもんだよ。志が潰えるまでを描けば終わりだ。マリみてだって小笠原祥子が卒業すれば終わるんだろうよ。おれはマリみて序盤を読んだとき「これは少女帝国の崩壊を描くのだろう」と思っていたのだけど、後半の引き伸ばし展開をみるぶんに、どうもそういうふうにはならなかったようだなーと印象を修正したのだった。市民革命が起きることはあっても、革命後の世界などありはしない。命が終わっても続くのが時代であり、話が終わっても続くのが現実なのだと。