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立川 - 八王子 OFF

八王子

なんとなく立川〜八王子あたりで OFF 会をやろうという話があったので参加した。寝不足だったのだけど大変おもしろかった。たぶんクネクネ三年分、自分語り五年分くらいは乳酸を溜め込んだと思う。

前半は立川見物、後半は八王子に移動してファミレスで半日ほどくだをまくという展開。田舎者なので八王子は知ってるけど立川は乗り換え駅程度の認識しかなく、どんなとこだかわかってなかったけど、結構いいかんじのところだった。衛星商業都市ってかんじだろうか。ちょっと古いタイプの駅前デパート的な建物の中に、おそらくは一般的なショップが撤退したあとに入ったのであろうオタショップ群などがひしめいていたりして、やっぱ東京圏は根本的に文化的な余裕があるなーと思ったりした。ハコ自体は地方でもありそうなんだけど、維持された質的な水準の高さは地方ではありえん。ほかにもワンフロアぶちぬきの本屋さんがあったりとか。モノレールも走ってる。立川は再開発にわりあい成功している側の街という話だった。一方八王子は、再開発途上ってかんじらしい。なんとなくそんなかんじした。でも八王子と立川なら八王子のほうが全国的に有名だと思うんだよな。田舎住んでた頃、具体的に都内のどこにあるとか何線でつながっているとかわからないんだけど(というより、じつはいまだに「山手線圏外の東京都の地図」をちゃんと認識したことがない)、漠然と「東京都の地の果て=八王子」みたいなイメージを持っていた気がする。立川とか知らなかったな。中野はサンプラザ中野氏の名前経由で知っていたんだけど、山手線沿線のどこかにあるんだろう程度の認識だった。

で、八王子はしばらくメシ屋を探してウロウロしたあと半端な時間帯だったために候補全滅、ファミレスで時間つぶすかとすかいらーくに行って、そこで気がついたら夜半まで粘っていたという按配。とにかくよく喋った。店には学生の勉強&モンハン禁止みたいな張り紙があった。次行ったらドリンクバーで延々粘るオタ集団も禁止と追加されてそうだな。

喋ったことなど思い出しつつ以降にメモ。

  • 崖の上のポニョ / スカイ・クロラ関連
    • ポニョについて「絵で全部もっていってる」という言説は多いのだけど「とにかくテンポが良い」という長所はあまり指摘されていないという話。現代アニメの特徴としてテンポのよさ、というか展開の速度感はとても重要で、その点で考えてポニョのスピード感は確かにすごい。わりと尺が長いのにダレないし。絵の動きだけでなく、ステップの省略においてもダイナミックな映画だった。
    • これについて P さんが「設定の説明といえば生命の水くらいで、あとは説明とか全部端折って結果だけを見てるかんじ」「TV アニメの B パートだけで繋いでいった話」と説明していて、なるほどと思った。判断、行動の結果を見せて、「なぜこうなったのかは、わかるでしょ?」とさっさと次へ進んでいくわけだ。なぜそうなっているのかは、おれはだいたいわかった気になった(または「なぜこれがこうなってるのかは、おれが否定したり肯定したりすることじゃない」と思った)側の人間だ。それがわからないと思った側のひとは、理由を考えるためむずかしい感想を書く方向へ行ったということなのかもしれない。
    • 一方でスカイクロラは、前半部にかなり伏線やドラマのプロセスを埋め込んであって、眠い展開(フレーズ「いつもの押井」らへん)が続くのだそうだ。なぜ結果が導き出されるのかについて、わかりやすくはなっていないが、作中でヒントや掘り下げに利用できる材料が豊富に準備される。とはいえ、おれはどうも押井氏作品を読み解く文脈が、事前整備されすぎているような気がしていて、そこがちょっと引っかかっている。見てないのでわからんけど。やっぱり「いつもの押井」ってことでいいのかなあ?
  • ところでメイド喫茶というのは、客であるオタ男子側の「メイド喫茶に行きたい」という欲望だけでなく、店員であるオタ女子側の「メイド喫茶で働きたい」という願望によっても、危うく成立している界隈なんじゃないかと思っていて、この考えはオタ一般にそこそこ浸透してるんではないかと思っていたのだけど、どうもそうでもないっぽい、という話をした。というのは、メイド喫茶の時給て大して高くないわけなので、ふうつの水商売みたいな感覚で「割のいいバイトだから」みたいな感覚で店員になるようなひとってあんま居ないんじゃないかという話で。
    • 近年はメイド喫茶も大きく「オタ系(独立系のオーナーが好きだからやっている)」と「水商売系(キャバクラ等のノウハウを流用した本筋のソフト風俗)」に分かれるようなので、その区分でいうと、これは前者のほうに限定した話といえる。ちなみにおおまかには前者は飲み食いしたぶんお会計、後者は時間制でドリンク飲み放題みたいなタイプの会計システムであることが多いとかなんとか。その知識も結構古いので今はどうだか知らん。
    • 根本的に、喫茶店は大して儲かる商売じゃない。(オーナーも店長も店員も)やる気がないと、維持はむずかしいんじゃないかと思う。
    • えーとたとえば「ネット声優になりたい」とか「メイド喫茶で働きたい」とか、そういう「ガチガチのプロフェッショナルというほどには敷居が高くないけど、夢と近い方向での自己実現ができたらいいな」という願望によって生じている流れって、たぶんあるんじゃないかなーという。まあ用語「自己実現」と用語「やりがい搾取」って相性抜群なので、取り扱いかなり注意しないとアレなんだけど。
  • たいへん長時間自分語りをした。ワード数でいうと、おれの OFF 会経験上最多かも。ただしサシ OFF 除く(←サシ OFF だと、だいたい中盤以降ダウナーな自分語り時間帯が入るので)。まあサシ OFF の場合、自分語りといっても自意識語りとは全然違う部分のトークであることが多く、今回は展開に引きずられてかなり直球の「オタ自意識トーク」になってしまったのでレア度は高い。おれの場合もはやオタとしての自分の「設定」を開示するのが嬉しい年代でもないわけで、どうも設定開示系のトークになってしまっているなーというバックグランド自己診断回路からの警告が出まくって、気恥ずかしかった(関連→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20061210#p4)。というか、ちゃんと語るには準備不足だったので、時間を費やしてお茶を濁してしまったようなところもあり。いずれの機会のため整理しといたほうがいいのかなー。まあ OFF 会での自意志語りなど数年に一度あるかないかだと思うので(今回が人生最後かもしれんし)、あんま準備しとく必要ないか。
    • そもそも、web 日記者としての立場でいうと、じつは設定開示系のアクションって結構相性が悪い。というのは、「自分はこういう基準でこう判断する」という不動の規則を見出そうという試みは、もしそれを本当に達成できた場合、日記を書く必要がなくなっちゃうんだよね。毎日自分がなにをどう考えるかわからない(同じ条件でも前と違う判断をするかもしれない)からこそ日記って書くわけで、基準が完成してしまえば、あとはその基準に照らして「こういう環境を与えれば、おれはこう考えてこう行動する」と導き出せるわけで、いちいち個別の事例など記録しなくてよくなる。日記というのは原本のないルール更新履歴(というか適用事例集)のようなもので、書くことがあるうちはまだ自分は硬直していない、あるいはそれが「経年劣化&堕落としての柔軟性」なのかもしれないんだけど、それはそれで構わない、というかんじか。原本になにが書いてあるのかを推測するのは自分で自分の書いたログを読み返す愉しみに等しく、それを中途半端に言語・外部化しようと試みれば、間違っているかもしれない余計な自己解釈に縛られることにもなる。
  • 「なんでおれは最近、必ずしもおもしろいと思っていないアニメを見ているのか問題」についてだけ再整理
    • つまらない〇〇を見てしまったとき、「ああ、おれは〇〇の客ではなかったな」という処理は当然できる。昔からよくやっているし、いまでも結構多用しているほうだと思う。だが、現在のおれはあんまりおもしろくないアニメを見たとき「おれはこれの客ではなかったな」という処理でパージしていない。という食い違いが生じるのはなぜか。
    • 理想として、自分にとって快適な暮らしを追求していけば、自分がおもしろいと思うもの以外が視界に入らなくなると思っている。護身完成すれば自然と自分にとっての傑作以外視野に入らず、自分にとっての駄作にはそもそも出会えぬのじゃ。だから、最適化を追求する態度でオタクをやっているぶんに、なにかおもしろいと思えないものにぶち当たってしまう確率は実感として低い。そしてその態度の実践は、むずかしいことではない。ある時期まではずっとそれでやってきた。かなりハッピーなオタライフだったと自負している。ただ、それは要するに先細りなのだ。普通の人間は無限の欲望を持っておらず、それをさらに最適化してゆけば最低限必要なもの以外残らない。そして、多量はさらなる多量へ、少量はさらなる少量へと向う道理があるから、研ぎ澄ませていくと最終的に、オタクを卒業するルートと一致する。2008 年はオタクイズデッド以降であるから、死ぬことがあればそれは仕方がないわけだが、それを見越して衰えてゆけるほど達観してもいないので、ピュア化による先細りよりはノイズまじりの環俗を選んだ。その一分野として、たとえばアニメがある。という話になる。
    • そういう態度が基調としてあるということは、言い方を換えれば「現在の TV アニメはもはやおれの帰属空間ではない」というメタ意識を自覚しているということでもある。ひとつには当然の話で、普通アニメというものは、おっさん向けになど作られない。だから、「ああ、おれは〇〇の客ではなかったな」というのは現在おれが見てるすべての週間放送アニメに対していえることで、「想定される客ではないけど見ている」というのが前提にある。年甲斐もなく BD など買い漁って、「想定されていない客」になりにゆくことは可能としてもだ。
    • そしてもうひとつ、こちらのほうが重要なのだが、おれはアニオタとして一度脱落しているのだよね。ゲームに最適化しすぎて、アニメ体力がなくなった。30 分のアニメを一本見たらヘトヘトになる。そういう時期があった。物心ついてからこっち途切れなくシーンを体感する、というレースから脱落した。呼吸するようにアニメを見て、どんなベクトルであるにせよ発する声が現場当事者のものとなる、つまり「考えるまでもなくアニオタである自分」というトランス状態に没入することは、おそらく二度とない。いまあるのは「オタクとしてアニオタをやっている自分」という自意識で、ここからおそらく数度の熱中を経ればトランス状態に近づけるんだろうと思いつつも、歳食ったぶん自己監視系の性能が上がりすぎた。「趣味をやる」という自覚は、「趣味人である」という無自覚より ON 状態では場合によって強いともいえるが、OFF 状態すら趣味の活動に自然体で組み込んでいく無自覚オタと比較できるものではない。
    • …と、いうようなわけで、アニオタとしての現在のおれにとって「おれにとってそれがおもしろいこと」よりも「とりあえずなんでもいいのでアニメを見ること」のほうが優先度が上。おもしろいと思わなかったアニメは、リソース配分によってパージするんだけど、「おもしろくないものは時間があっても見ない(というより自然と視野に入らないようになっていく)」というような処理を捨てている。むかしはそれをやっていた。やった結果、週間アニメ自体をほぼ見ない状態になって、アニメ体力が枯渇した。あれから四年経った。たぶんアニメ体力でいうと、高校生当時あたりの水準まで回復したといってよいはずだ。でも、当事者性は取り戻せない。
  • 田中ロミオ「AURA」読んだつながりから、桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」を読もうかと思ったので貰い受けることに成功。よむぜー。ストーリーとか全然知らんのだけど、いまのところ関連書籍としては氷室冴子海がきこえる」あたりなのかなーとか漠然と認識している。
    • あと AURA については、感想(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080803#p2)に書いたとおり、おれはヒロイン(だけ)は邪気眼属性ではない(なかったけど、邪気眼だということになった)と思っているので、あの小説で魂が救済(?)された邪気眼属性のひとって主人公だけだよねと思っている。ラストのなんとなくハッピーな雰囲気というのが、クラス全体の邪気眼からメタ邪気眼への脱皮を意味しているのなら、ちょっと話は違ってくるかもだけど。
  • たまには雑誌を買ってみるのもよかんべと、オトナアニメ vol.9 を買ってみた。マクロス F のランカ表紙。よむぜー。
  • 伊勢田勝行「でりばりんぐ」の DVD を借りて、かわりに「恋戦士ラブコメッサー」の DVD を貸した(というか押し付けた)。みるぜー。

疲れたのでこのへんでやめる。