明文化されていない流れに乗れるかどうかがオタクの分かれ目
昨日の OFF 会(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080524#p3)の個別感想というか。A さんの、会話への参加スタンスを見ていて、なるほどなあと思ったことがあったのでメモ。A さんは、以前の日記でも書いたが(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080203#p2)、「勉強してオタクになった」タイプだ。というよりも、彼がオタクの勉強をはじめたのは大学以降だというから、いままだ「オタクになりかけている」状態といえる。そういう彼が、まるで生まれたときからオタクでした的なツラをしているその他の面子とのオタ会話の中で、どういう振る舞いをするのかなーと見ていると、まあ自分がわかるジャンルについては反応し、わからないジャンルはスルー、というのはいいんだけど、どうもそれだけではない ON/OFF の区別があるようだなーと気になった。で、「オタクにだけ通用するカッコいいポーズ」問題の話になったときにようやく気付いた。彼が反応できるオタ話の基準として、「わかる / わからないジャンル」以外に、「そこに既に文脈がある / ない」があったのだ。
たとえば、アニメには文脈がある。ゲームもまあ、相当複雑だけど一応ある(人文系でいうとエロゲー語りとかでは一部分やたら詳しく流れが存在したりもする)。漫画には結構しっかりしたものがある。研究者とか専門家とかプロのライターとかが、きちんと調べたりじっくり考察したりして作った文脈は太く深い。ネットで馬の骨の我々が適当にいってるような文脈は、か細く網の目のように分岐合流を繰り返す。そのようにして作られた文脈に様々な乗り手が加わって、大きな流れを形成していく。大文字のジャンルについては、既定の文脈は大概あるといってよい。細分化した専門ジャンルだと、あったりなかったりするが、「いまはまだないけど形成待ち」とか「細かいことは分からないけど多分こんなふうになるんだろ」的な大筋はなんとなく把握できたりする。でも、これがたとえば「オタクにだけ通用するカッコいいポーズ」みたいな、ジャンル横断的な連結の上に仮構された、およそ固着しそうもない時代の泡沫というか、シーンの枝葉の切れっ端みたいな現象についての文脈などは、ほとんど存在しないものといってよいわけだ。
A さんはオタク勉強の手順として、おそらくは「大文字の文脈に沿ってコンテンツを押さえる」ということをやっている段階だ。勉強の過程で新しい補助線を見つけたりもするんだけど、既定路線に大枠はガイドされていて、そこから大きく外れていくことはない。そして、その途上にいるオタには、「まだ誰にも規定されていない文脈」が感覚できない、ということになる。だから、A さんは反応できなかった。なんの話をしているのかよくわからなくてポカンとしているかんじ。これなー。結構新鮮だった。おれがオタクとして詳しくないジャンルは一杯あるけど、オタクそれ自体「でなかった」時期は相当過去のことになってしまっているので、オタセンスが一切利かない領域があるものとしてのものの見え方とかについて、想像力がしぼんでいたと思う。
まあこれ、アカデミズムのひととかが一生懸命やってることなわけだよね。もうちょっと俗な話に落とすと、たとえば我々ボンクラが時事問題を語ろうとしても(時事センスが全然ないから)漠然とは語りえず、報道メディアとかにいろんなアングルをつけてもらってはじめてそれを議論することができる、みたいなかんじ。選挙がどうとか、法案がどうとか。文脈を規定してもらわないと、取っ掛かりがなさすぎて絡めないのだよね詳しくないジャンルについては。まあボンクラはそもそも政治など語らないのだけど余談。話を戻して、コンテンツを意味づけするためのコンテキストを整備する、というのは価値のインフラ事業だ。学問にでも商売にでも、それは最初に必要となる。オタ同士でやってるぶんには、互いにそれが自明であるから明文化する必要がない。でもそれだと部外者には理解できないままで終わるし、流れに関与するひとの輪がひろがっていかない。だから、オタにとっては自明のことを、改めてオタじゃないひとの言葉で明文化してゆく。現場主義者からみて「なにを今更」「愚鈍なことをやっているなあ」的な視線を受けながら文脈を舗装し、そのあとに来る文化的ななにかみたいなものを迎え入れる。A さんは、そういう舗装道路に乗ってやってきた新参の一人なのだろうし、また、新しくまだ文脈の存在していないなにかに、文脈をつけていく役割を担ったりもするのだろう、それはオタク全然関係ないことについてなのかもだけど。とか思った。