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最新と完璧と最高傑作とその他諸々

「実際にリリースされた PS3 のスペックが、開発当初の予測を下回ったので、このたびリリースされる MGS4 の完成度は当初予定より落ちたものになるよ」みたいなニュアンスで情報が広まってしまい、後に「あれは翻訳の際などに意図がねじまがって伝わってしまったことによる誤報だよ」と公式に否定された、みたいな話。GDC とか E3 とかでお茶目な開発者がボロッとウッカリ発言をしてしまい後日撤回、みたいな出来事はチラホラみるけど、今回のケースはどちらかといえばネット情報流通的なトラブルといえそうだなー。まとめサイト脳とかそういう用語に絡むんだろうか。

…で、おれが気になったポイントはそこじゃなくて、最初の「PS3 では MGS4 を作れない」という誤報が伝わったときに、ファンコミュニティからネガティブな反応があった、というあたり。仮に PS3 で最高の MGS4 が作れなかったとしても、それのなにが問題なんだって話だ。それが誤報ではなかった場合にでも、今年 6 月には PS3MGS4(の完璧ではないバージョン?)が遊べることに変わりはないわけだよ。開発者が「がんばったけど無理だった」と言っているうえでだよ。じゃあそれは仕方なくね?という。

仮にどうしても理想的な MGS4 が遊びたいんなら PS4 なり XBOX 1080 なりの次世代機版を待つという話になると思うんだけど(「PS3 では作れない」と言ってた(と伝えられた)わけなので、半年一年とか開発期間を延ばせば済むという話でもないだろう)、そんな何年後になるかわからない可能性や未来の話とかより、どう考えても来月発売される「完璧ではない MGS4」のほうが訴求力あるし、実際 KDE 社の現状の精一杯をみたけりゃどのみち MGS4 を買うしかないんだから、それがネガティブなニュースになるという考え方自体がネガティブだって話に思えるんだよな。

以降、そこに引っかかりを覚えた回路についての脳内反省会。

  • …というのはしかし、まあ、ゲームマッチョイズム側の思考法なわけよね。ゲームに完成形はなく、現在は常に過程であり、続編やコンセプトを継承した新作が、先達の積んだうえにさらに石を詰んでいくという。近年のおれのゲームの買い方って基本的にそれで、「このジャンルにおける現状の最高到達点はこのへんか」とか確認するために買う、みたいな感覚はある。
    • それは要するに、「将来これよりおもしろいゲームは出るだろう」ってことだ。「このシステム近似で、これよりもおもしろいゲームは出ない」みたいなゲームは、過去形でしか語れない(「あの文脈を振り返ってみて、結局いちばん我々を幸せにしたタイトルはあれだったね」というような)。たぶん後でこれよりもおもしろいゲームは出る、というとき、じゃあそれが出るまで待つか?待たないよねそりゃ。あとで日本語版が出るのわかっててアジア版買うのを控えるか?控えないから現状がある。まあ金も時間も情熱も有限リソースなので、運用の問題ではある。次を待てるものは、さらにその次まで待てるだろう。そして我慢できないタイトルは一日だって我慢したない。MGS4 は、すくなくともそれに注目するようなユーザにとっては、そういうタイトルなんじゃないのか。
  • ジャンルが死んで続編が積み上がっていかないタイトルがどうなるかというと、ゲーオタには末永く愛好されるわけだけども、まあ、市場的には、死ぬ。たとえば、おれが大好きなゲームであるところの、クレタクとかバーチャロンとかもそう。おれはあれらを完璧に近いゲームだと思っているけど、完成品に仕上げたあとのリストラに失敗して、シリーズが続かなかったと思っている。あれらはあの時点で十分に美しかったがゆえに、あれ以上に良くするというビジョンの提示ができなかったんじゃないだろうか(マッチョ的な意味での美しさではなかったのだ)。まあそれでも、別に永遠に死んだという意味ではなくて、ある日突然見出されて流れが復活することもあるかもしれないし、そうなってほしいとも思っているけど。
  • 工芸品、民芸品としてのゲームでいうと、ゲームはどの時点でも完成品でなければならぬ、となる。シリーズの第 1 作は第 1 作として完成していて、2 は 2 として完成していて、3 もまた 3 として完成しているという。これは拡張をメリットでなくデメリットにしてしまう考え方でもある。完成形にまで高めたものに量的質的な拡大路線を加えたうえで、新しく完成形を模索していかないといけない。シリーズを重ねるごとに縛りが増えていく。
  • もちろんマッチョイズムにもデメリットは色々あって、ジャンルの拡張性・発展性を信じることができる時代にしか多分成り立たないのだよね。それがゆえに、拡張性を信じられる方向へとジャンル全体のトレンドを偏向させていってしまうという問題があって(しかもそうした偏向を重ねたうえでも、やっぱりいずれ発展性の限界は見えてくる)、これもあんまりいいことではない。
  • 西欧で日本のゲームが褒められるのって、「民芸品として」「職人として」「完成品として」みたいな部分が強かったりする。究極を目指しちゃうかんじ。それはそれで偉大なタイトルにもなる。でも、「そのタイトルによって、拡張性・発展性のあるアイディアが豊富に提示される」というのが、マッチョイズム的には優れた仕事といえるわけだ。完成品の後には業界の流れは続かない。ビジョンを提示するゲームはジャンルを作る。
  • (ゲームマッチョイズムは未来に対する無根拠なオプティミズムを基盤としてるんじゃねーのという指摘に対して)それは確かにそのとおり。鉄腕アトムに代表される原子力万能、あるいはプレオタク世代における万博的精神みたいなものかもしれない。ナディアでいうとジャン。そしておれの場合にはゲームマッチョイズム、だ。西欧列強の血球成分は、白血球・赤血球・血小板・ムーアの法則の四つで出来ているのに違いない。ただしそこに限界があることもわかってはいる。だからおれの場合にそれは信仰というよりも、願いだ。