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馬鹿から搾取しようとして偏差値を下げる秀才たち

背伸びしなければ成長できないわけではないが、成長したいという欲望は実際の成長に役立つし、背伸びはどうしても成長への欲望に付随する、ので、やむをえない過剰さとして見過ごすのがよかろうとなる。が、背伸びが屈折すると優越感を得たいという欲望にすりかわってきて、このへんになるともはや別口だろうしどうしたものかと思うが、しかし成長の過程で手ごたえだとか確かさがあったほうが楽しいしやりがいも出てくるってのも事実だし、成長可能性の間口は広いほうがよいのだから、やはりそこも見過ごすのがよかろうと判断、することはできる。

第一、優越感ゲームってのは結構むずかしいのである。なにしろ、日夜ニッチにはしる努力ばかりしている類のオタだのサブカルだのというのは、その先進性がふつうのひとにまったく理解されない。理解されないというのは、言い換えれば劣等感をもってくれないということだ。そして、劣等感をもってくれない相手には優越感ゲームを仕掛けることができない(≒ピンとこない)。普段どちらかといえば「理解されないこと」こそを上等として活動しているのだから、それで当然なのだが、優越感ゲームってそういう「他人に理解できない(上等な)ことを理解できる自分」という満足感からは外れたところにあるからな。優越感ゲームを仕掛けたいがために、相手に劣等感を植え付けるべく「啓蒙」努力を怠らない、みたいな陥穽にはまっていくようだと涙ぐましい。まあなんだ、これもまたひとつ「傍目に無残」とでもいうか。しかし、目的がどうであれそうした欲望充足のための遠回りな努力もまた、結局オタ知識の裾野をひろげる結果にはつながっているんだよなと思えば、まあ、いいのか。常識もそうやって広まったりメンテされたりしているのだろうか。洗脳ゲームに勝ち残りたければ、得たい結果は対象が低きに流れる結果にこそ設定すべき的な。