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おれがリアルでリアルがおれで

「OFF 会なんてリアルじゃない」というフレーズがおもしろかったので、脳内でふくらませてなんだこりゃメモ。

  • バーチャル世界と地獄の現実世界がはっきり区別されている「MATRIX」型(1999 年)。
    • 「肉食ってる連中が容認できるボーダーはせいぜいこのあたりですかね(クッチャラクッチャラ)」
  • バーチャルとリアルは区別できないとする「Avalon」型(2000 年)。
    • 「味噌醤油ビデオキッズの諦観よのう…(クッチャラクッチャラ)」
  • そんなことより「スベテリアルデス」とまことは言った(正確には入力した)。いとうせいこうノーライフキング」(1988 年)のことである。
  • それをいうなら昔中国ではおれが胡蝶で胡蝶がおれで的なアレがだな…→http://page.freett.com/sarumane/etc02.html
  • なにが「リアル」か?
    • 全人格的な人間関係?
      • 「完全なもの」を「リアル」とする考え方、か?
      • それができれば理想的だが、ニュータイプ同士でもないと無理だろう。長年連れ添った夫婦でも熟年離婚することがあるし。藤子不二夫も A 氏と F 氏に分かれたし。
      • しかしこの全人格的な人間関係ってのはおもしろいな。どうなるんだ。それができてしまうと、ひとは(極端には)ひとつになるか殺し合うかになってしまう気もする。全面的な合意か絶対の決別かの 0/1。まあ人間一人にしても多面的であることや、理性のことを考えると、全人格的に付き合いながら孤立した距離感を保てるとも信じられるが、「他人を理解する」ということに人間の感情はどこまで耐えられるのか。人間は弱さゆえに引かれたり反発したりするのだろうし。強さでつながっていけるひとは多くない。
      • それを超越して「一瞬で理解して認め合ってしまう」というニュータイプの理想はすごいな的なアレもあるか。綺麗すぎる。それゆえオールドタイプは嫉妬するしかないわけか。
    • 現時点では「関係の不完全さ」がリアルで、「情報の読み取れなさ、読解の困難さ」にリアリティがあるとしたほうが妥当だろう。
      • 純化され、本質からかけ離れていくほどに「リアル」でなくなっていき「バーチャル」に近づいていくというような理解。本が紙束に見えるのがリアル、本の中に物語が見えてくるとバーチャル。
      • コミュニケーションはリアルとバーチャルの狭間で行われているのだろう。リアルだけで恋愛は成り立ちづらい。バーチャルだけで信頼は成り立ちづらい。しかし関係が高度化してくると、戦場はよりバーチャル側へ偏っていく。みんなが信じているフィクションは、本質でなくともそれと同様のものとして扱われていくので。
      • 「リアルはリアルだけど大雑把。ノイズまじり。実験しても誤差ばっかり。だからバーチャル最高!でも現時点ではまだまだバーチャル不完全。バーチャルいまだ功成らざる者。ゆえに残念。我々リアルの牢獄から抜け出せない未開人」「バーチャル地獄。だってバーチャル純粋だから。白黒はっきりつけやすい。でも白黒はっきりついちゃうと我々どうせ中途半端な灰色。極端最強だと半端者の居場所なし。だからあんまキッチリハッキリさせないリアル最高!リアルいい加減。我々いい加減。いい加減はいいかんじ。もとの濁りの田沼恋しき」てかんじの筋合いなら凡俗にも理解しやすい。
  • リアルとリアリティ問題
    • そういう議論は 94 年以降家庭用ゲーム機オタ界隈の一部とかで延々争われていた印象があるけど、あれは単に言い合うという様式のコミュニケーションをみんながしたかっただけなのだろうから、あまり結論らしい結論が出たことはなさげ。
      • このあたり「事実スペランカーはまったくクソゲーではないが、用語「クソゲー」を通じてスペランカーを笑うことでつながっていくようなゲーオタコミュニケーションがあるのだとすればそれもまた致し方なし」というようなアレと筋合いが近い。原理主義から遠いほどスパイシーな用語が増える的な。
    • そのへんとちょっと別口で、スパロボオタのひとたちも別途「リアルロボットというけどべつにリアルじゃないよね」的な筋合いからリアルとはなにか的な予定調和議論をしていたようだがこっちはよく知らず。まあ売り手主導の流れにユーザ側から理論補強を試みるというのは珍しいことも新しいことでもなかったし。あ、でもスパロボもゲームといえばゲームなのか。ややこしい。
    • エロゲー界隈には「リアル・リアリティ」という語彙もあったようだ。
  • ゲームにおけるリアルとリアリティ問題のおれの結論
    • リアルとリアリティといったところでべつにその厳密な意味とか解釈を見出したいわけじゃないし(標準的な意味が知りたければ辞書でも引けばいいのだ)、問題意識もそこにはない。リアリティはリアルに付随するものだが、なぜそこで「リアリティがあること」が「リアルであること」に優先されなければならないか、またはそういう考え方に抵抗していかなければならないか、というのは、それこそビデオゲームの背負っている因業のようなものだと思える。
    • おれはこの問題については、運転ゲーというジャンルを基点に考えることにしている。なぜなら運転ゲーというジャンルは、まさしく(国内ゲーオタによるリアルとリアリティの議論の根っこにある)ゲーム開発マッチョイズムの成果をもっとも色濃く反映するジャンルのひとつであるから。運転ゲーのシーンを追っていくことで、この種の問題意識は自然に整理できる。
    • (ここにオタオタ妄想が猛り狂いまくる)…という予定だったのだがボバーと書いてた文章全部消えた。一回書いて満足しちゃって二度書く気が起きないのでやめ。まあなんか「たぶん多くのひとは F1 マシンを運転できないけど、にもかかわらず、多くのひとが F1 ゲームで優勝できるのはなぜか」「マジで F1 のプロドライバー以外まともに運転すらできないようなゲームが出たとして、それでもやはりそのゲームでの優勝が実際の F1 グランプリでの優勝と等価とならないとすればそれはなぜか」「問題は「シミュレーションレベル」と「解釈」の二つの筋合いに整理できる」「シミュレーションレベルの追求は決して 1 にならない 0.9 の循環小数」「その現時点家庭用最高峰は今冬リリース予定の XBOX 360Forza Motorsport 2」になるはず」「「車を運転するのはおもしろい」という現実における認識に端を発して運転ゲーというジャンルは成立しているが、「車を運転するゲームのおもしろさ」がそれと完全に等しくなることは絶対にない」「車を運転すること、またそれに付随する諸要素についての「解釈」が、プレイヤの感覚としての「リアリティ」の近似値となる」「もしシミュレーションに「解釈」がなければ、リアル系ゲームは一ジャンル一タイトルで良いが、そうではないから様々なタイトルや開発者の解釈を楽しめているともいえる」「ゲームにおけるシミュレータが「模擬」と「擬態」の合成物であるかぎり、リアルとゲームの狭間に解釈は必ず挟まり続ける」とかなんとかいろいろあった。