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雲語で考える

東京タワー

「二週間ほど笛を吹いて暮らす」は今後の目標だが(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060131#p1)、「雲を眺めて暮らす」ならしばらくやったことがある。雲を見て暮らす場合、周辺に高い建物のない場所に陣取るのがよい。建物とかで空の視界が遮られると、十分な画角感を得られない。目の性能は変わらないはずなのに遮蔽物の有無でかなり印象が変わるというのは、目の曖昧性能の成果かなと思いつつ。おれの場合屋根に登ったり高台の公園に行ったりした。地面や川原に寝転がるという方法もあり、真上気味の雲はパースがあんまりついてないというか、望遠気味に見ているようなかんじになってまた別の味わいがある。

おれの場合わりあい文字ベースの人間なので、ものを考えるときの最小単位は言語であることが多い。最近のオタには映像ベースでものを考えるひとのほうが多いらしい。ラノベのひととかは映像ベースで描いてるひと多いっていうしな。まあそういうのとはちょっと違う話かもだ。とにかくにも、延々雲を見ていると、まあ最初のうちは雲をトリガにして言語ベースの妄想でつぶせるが、だんだん雲だけでは間が持たなくなって全然関係のないことを考えたりしはじめて、それを丁寧に潰して意識を雲に向け続けていると、だんだんものを考えていた言語野が雲に置き換わってくる。最終的には頭の中が雲だらけになって、それらは雑多ないろんなものであるはずだが、しかし雲なのでなにがなんだかよくわからず、もちろんこの「なにがなんだかよくわからない」という考えも雲なので、我に返るまでよくわからない。雲オタであれば原理など理解しているだろうから、頭が雲語になっても読めるのかもだが。

人間が地面に立って正面を見たとき視界の半分くらいが地上側っていうのはけっこう助かっているよなとも思う。雲はなんのかんのと毎日見るわけなので慣れてしまうが、じっくり見ているとこれは異常だなと思えてくる。なにかに見えるというようなことはない。雲は雲の形をしていて、雲以外に雲のように見えるものはない。たまに雲の大地から雲の滝が落ちてたりする。滝の下には空があり、その下にまた地平線がある。と思ったら距離感が全然違って、あれはすごい遠くの雲と近くの雲が重なっているんだった。空のうち雲のない部分というのもよく考えると怖い。その部分はおれと宇宙を直結しているからだ。地表でのほほんと暮らせているかと思っているが、昼夜を問わず常に無限遠と相対しているのかと思うと。やべー落ちる飛ばされる反重力で斥力で、とか余計な考えが強まってくる。かと思えば光陰の織り成す芸術が展開されたりするが、まあ雲や空は芸術ではない。彼らはべつに芸をやっているわけではない。これを芸術として解釈してしまうのは貧しかろう。とはいえ芸術的と理解するのが凡庸の尺度では落ち着く。巨大すぎる規則と相対できるほど殻がでかくないからな。矮小化しないと、まず認識できない。