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ケータイ小説はリアルか問題

旅行 | 080103

バーチャ 1 あたりからこっち延々リアルとリアリティの境界線で戦い続けるゲーオタ界隈からすると何故今頃な話題だけどゲーオタも問題意識を抱えたまま特に議論を前進させないので程度は一緒だな!やはりそこいらへんはゲームアカデミズムの仕事か!と思ったけど一応ちょろっとケータイ小説を読んでみたのでリアリティについての感想。

  • おれにとってはリアルじゃないけどこれをリアルと感じるひとも居るんだろう。

終わった。うーむ。これは体験の共有可能性みたいな話と近いと思うんだよね。感想文でいうと、たとえばおれが小学校の頃養豚場の社会科見学にいったとき抱いたのは、豚がどうとかではなく、ひるがえった自分の小学生としての人生への絶望感だったんだけど、そこで「絶望した」って書いても感想文読んだひとは当惑するだけだ。前提を共有しない同士でもある程度は疎通していく類の感想というのは「豚がデカかった」とか「豚の目がピュアだった」とか、まあ「豚が」始動の感想だと思うんだよね。つまりこれが流通するリアル。でも主体的には「豚が」始動より圧倒的に「絶望した」のほうがリアルなんだよね。それこそがそのときその場で感じたことだから。ただ共有がむずかしい。

ひとが宗教にはまるきっかけは神秘体験だと言われていて、神秘体験というのはまさに「他者と共有不能の自分だけの体験」のことなのだが、まあそこまでではないにせよ、個人の感情は、それを言語のレベルまで解像度落とさないと共有できないことになっている。そしてまた一方で、発信されたものだけが存在することの裏返しで、発信のないものは存在していないものとして容易に扱われる web という世界があり、もっといえば、web に限らず表現できないものは、それを体験したひと以外には原理的に共有されないという事情がある。しかし、じゃあ感情は、ないことになっているのかというと、そうではない。感情という大雑把な括りの曖昧さを持っているおれは人間だから、ということは、同じく人間である他人もまたおれと似たように曖昧な感情を抱えているのだろうという信頼関係だ。実際に言語レベルで吐き出してみるとたぶん同じようなものだなと相互に検証できる。でもその実体を見たことはない。逆に言語の魔性みたいなものもあって、言語表現として整備されてある感情は、仮に自分に本当にはその種の感情がなかったとしても、それを内在するものとして扱ってしまうという話もある。言語系が違えば感情の性質は違ってくるのかもしれず、それは方言の地域性や母国語の国民性とかとも関係しているのかもしれない。どのみちやはり、実体を見ることはできない。

ものすごく脱線している気がしたので戻すと、消費(批評)する主体としての自己のリアリティについて疑わない、という態度だと思うんだよなー。乱暴にいってしまえば、あれよ、「ケータイ小説はリアル」とか「おれがクリアできないからこのゲームはクソゲー」とか「おれが感動したから Air は文学」とか「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」とかは、根っこが同じなんだよたぶん。昨今のネットにおける「神」の安売りも同じ。こちとらは受容し印象する主体であるぞ、という傲慢さ。それが客観ベースでバランス感覚を自認するひとたちからすれば癇にさわるというか、おまえらそんな丸裸で世の中渡っていけると思ってんのかこの野郎、みたいな反発を買う。実際に言語なんてものは流通してこそナンボだから、俺言語で無防備に発散してばかりではどうしようもなくはある。ただまあ言語系は流通パワーで常によじくれ曲がった大河だから、このまま皆が持ち寄った新しい俺言語を共有し続ければ、それをそのようなものとして受け入れて新しい言語になってゆく。ので今後はわからん。しかしいまのところでは、「通じてほしいひとには届くと信じて俺言語」「そんなの通じないのでおれにも通じる言語で語れ」という戦いは続くのであろうかな。

オタとして人間として、どっちの気分も共有できると思うので、どっちの肩も持たないかわりに自分の肩代わりもお願いできないというこれまでどおりの態度でいくしかない。これべつに若者 vs 年寄り的な話でもないしな。ロートルゲーマーが「昔のゲームはよかった」とかぼやいてる状況をリアリティ軸で説明すると、ゲーム自体がどうのでなく、それを遊んでいた当時の彼自身が、現在の彼からみて疑う余地なくリアルだから、色褪せないという話なんだよね。三丁目の夕日みて泣いてるおっさんを、そのこと自体で責めようという気分におれはならない。ケータイ小説で感動したその感受性のリアリティを疑わないというなら、それは確かにあるのだろうと信じることにするのが、他人の取るべき態度だろう。