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最近の読書

「周公旦」を読み終わった。酒見賢一氏作品であるから飄々としており、サクサク読めていいかんじだった。ファンタスティックでありつつ地に足が着いてもいるという、れいのフワフワしているんだかそうでないんだかよくわからないかんじの話。結果でいえば史実に基づいているが、解釈はかなり独特。おれはたぶん「本格的なファンタジーというのは、まさしくこのようなものであるのに違いない」と思い込むような順番でファンタジー小説クラスタに触れてきたのであろうから、こういう小説が非常にたのしい。

もうちょっと脱線して書くと、おれの場合ファンタジー文学みたいなものより先にドラクエに触れている。確かドラクエよりもうちょっと前に TRPG のルールブックとかが入ってき始めている。発売してすぐそういったメディアに触れているようなら年表に照らして事実関係を明らかにできるのだが、おれの場合発売されてすぐこれらのものに触れているわけでもないのでこのあたり曖昧で確認がむずかしい。同時並行してゲームブックが入ってくる。ゲームブックには「TRPG を遊ぼうにも(地理的に)同好の士が揃わない」「CRPG を遊ぼうにも金がなかったり親がゲームプレイ時間に厳しい」などといった不遇の(幸いな?)子供の欲求を補完する役割もあっただろうから、これらはむしろ同時並行して展開されていなければならない。

ファンタジー小説でいうと、たぶんコロボックル物語シリーズとかがロードス島戦記のリプレイ連載よりちょっと前、そこからゲド戦記とかホビットの冒険とかタランシリーズとかにいって(タランより先にロードスってのが我ながらちょっと笑える)、あとちょっと戻るとロードス島戦記より手前でエルリックサーガに手を出してみたりしたがシャブ中の気持ちというのがいまいちよくわからず戸惑ったりとかしたかもしれない、ともかくさらにそこから指輪物語に行って、たどり着くべきところまではだいたいたどり着いた気がしたので、あとはまあだいたいそこからまた現代に戻ったり過去に遡ったりとか往復しておれの中でのファンタスティック作品ジャンルの世界観構築を重ね塗り。その過程でスレイヤーズとかも一応読んで「あーやっぱりベギラマを唱えれば爆発する系のファンタジーって魔法がオカルトじゃないので安心するなあ」みたいな中二病的な感想など持ちつつ「どうも結局のところ本格派になればなるほど魔法が地味になるという理解でよさそうだな」という結論を出し、現在に至っている。

この理解に基づいた解釈の実際がどんなふうであるかというと、たとえばそのースレイヤーズとか BASTARD!! とかは「長々と呪文詠唱してでっかい爆発が起きてそれぞれが固有のエフェクト描写を開発してゆく作品」であり、この「長々と爆発までのプロセスを説明する」部分がウルトラ警備隊の発進シーンというかヤマトの波動砲というかようするに伝統的なオタ向け作品のキモであって「説明コストを支払う用意のある超技術」が「説明コストを支払うつもりのない超技術」になってあるだけの、底を浅く間口を広くとった初心者向け作品なのかなーというかんじになり、童夢とかになると呪文詠唱がなくて各エフェクトの開発ってよりはひとつの原理(「超能力とはこう働くものなのである」的ななにか)に基づいた演出の模索というかんじなのでこれはちょっと玄人寄りかなとなり、指輪物語ガンダルフが結局のところどう凄いのかいまいちよくわからんのでこそぞまさしく魔法使いであり、これが映画版の LOTR になるとサルマンとの戦いが超能力バトルの様相であって「原作の映像化っていうことで、ギリギリ魔法エフェクト開発のルートは採らないけどライト寄りにがんばってみました感かなあ」とか敷居を下げる努力と受け取り、ゲド戦記の「真の名」の制度は超常の力の存在そのものは確保しつつも魔法使いの地味(本格派)っぷりにおいては完璧であると感動し(民俗的には「実際にあってもおかしくなさそうな設定」感!)、最近の例でいえば京極堂シリーズなどは「摩訶不思議なことなどは特に起こさないが、言葉によって異なった世界観(複合状況にあるひとつひとつの事件・事象)の合致点を調整する」という超地味な魔術的テクニックであって、これは相当に「本格派の魔法使い度の高いキャラクタ」として認識してある。最良のタイミングを見計らい、最小のコストで充分の(大きすぎない)効果をもたらすやつ=凄い説。その「最小のコスト」というのが最小に近づいていけばいくほど、それは魔法でもなんでもなく現実の我々が普段からやっているような何気ない行動とかに置き換わっていくかんじ。山をも揺るがす大魔法で復活した邪竜を滅ぼす魔法使いは三流、一流の魔法使いはそれより以前に山の中腹にあるお社とかをノコギリとトンカチ持って行って修復するとかして、そもそも邪竜を復活させないのである。「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」とか「風が吹けば桶屋が儲かる(←自アンの場合「風が吹く→桶が飛ぶ」だが)」とか、そういう現象のへそを押さえる目。まあこのへん「描かれる天才」観とかと通じてしまって曖昧なのだが(→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060215#p1)。

天然自然を相手に行使する力ならそれはやはり超常とするしかないが、社会を相手に仕掛けるのであればそれは言語によって連結された共同幻想であるから、そこにはいかようにでも魔法と解釈する余地のある現象や、また実際に通常でありながら魔術的でもあるシーンは数多く紛れ込んであるはず、というような話か。結局魔法がすごいとか魔法じゃないものがすごくないとかではなくて、社会自体が魔法じみているんだからすごいものとすごくないものは区別できないよねという話でもあるかもしれない。見た目に派手なことではないが、じわじわと染みてくるダイナミックさがある。とにかくにも酒見賢一氏の描く世界はそのような意味で味わいが深いのだが、脱線が過ぎて日記が長くなった。

で、次に「語り手の事情」を読み進めているのだが、こっちのほうにはあからさまな淫猥描写が多く含まれており、ちょっと電車では読みづらいかもしれない。かもしれないというか、あまり読むべきではないだろうから、今度家か会社で一気に読んでしまおう。