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世界を救うために必要だと実感するのに足る(シナリオの質量と等しい説得力をもつ)プレイヤキャラクタの移動距離関連

なんの話だかも自分ではっきり割り切れていないんだが、モヤモヤしているものを漠然と書き出し。

  • 水野良ロードス島戦記」の、あの薄さでのイベント数の多さは、90 年代後半には結構奇異であったように思う、というか、ロードス一巻て以降のラノベと比べてかなりページ数的にペラいから、本棚に並べると「あれ、ロードスてこんなに薄かったっけ?」てなりやすかったような。
  • で、一巻以降は、あんま密度感がなくなっていく。それは当時「リプレイが小説になっていく」ということなんだろうと理解していた。
  • ロードスの場合、TRPG 小説であるからだ、という言い方があるけど、それだけでは多分正確ではない。が、とりあえずそこを引っ張ると、いまのラノべの間延び現象は、「基になってるゲームジャンルが変わったから、ロードスよりは間延びしているのだ」と言えもする。つまり、CRPG 小説から ACT 小説への変化ということだ。ビデオゲームに喩えるとした場合に、一本の CRPG のシナリオ規模に対して、一本の ACT や FPS に収まるシナリオ規模はおおむね小さい。ただし、CRPG には多分に抽象化が付きまとい、ACT や FPS はその度合いが低い。
  • ゲームの話をすると、GoWCOD4 を遊んでて気になったのは、キャンペーン開始から終了までの、PC の移動距離のことだった。往年の RPG では、だいたい設定された世界すべてがデザインされ、それらをくまなく旅しないと、世界を救えないようになっていたが、FPS において同じ方法は使われない。そもそも FPS では設定された世界すべてがレベルデザインされるということはほぼありえない。
  • 「世界を救うために必要だと実感するのに足る(シナリオの質量と等しい説得力をもつ)移動距離」みたいな感覚は、たぶん伝統的なゲームを通過することにより生じた嘘くさい刷り込みなんだけど、そうした感覚がおれの中にすら生じてしまっている事実は動かせない。ページ数、上映時間、プレイ時間、とかなんとか、応用もできる。そしてプレイ時間と移動距離の度量衡変換ロスにより零れ落ちるものを、うまく拾えないでいる、ということだ。
  • ファンタジー RPG と現代〜未来の FPS、というもうちょっと具体的な対応についていえば、文明の高度化は集約化を促すので、舞台となる文明が高度になればなるほど、世界を救うために必要な移動距離は短くなっていいし、あるいは、移動コストは低くなっていい、という考え方もできる。あるいは、ひとの生み出した問題であれば、ひとが集約されている圏内を行き来するだけで問題解決可能(というより、人間関係を扱うなら無人の荒野にはなんの意味もない)、という話もある。
  • 基本的には文明を使いこなして調整しておいて、最後の詰めの部分で、文明のサポートでどうにもならない隙間を強引に埋め合わせるために、PC が走る、というのは映画とかでよくあるし、「どうしても埋めきらない部分を飛躍するための野蛮さ」が、興奮や共感を呼びやすい方法であるのは確かだ。

とかなんとか。