matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

最近の読書

「サマー / タイム / トラベラー」を読み終わった。おもしろかった。よくわからないところもあったが、そういう部分は気にしなくても読めるし、読後なんとなく本屋に行きたくなる本だった。

ところで創作における天才キャラクタについての疑問の話だが、おれにはいまだによくわからんところがあるというか、自分で小説を書いてみないと一生わからないことかもしれないが、「人間は自分より頭のいいキャラクタを描けるのか?」という問題についてたまに漠然と悩んだりする。いまのところのおれの結論は「ほとんど無理。ただし制作者の頭の中で「天才像」が確立していればできるのかも」だが、なにしろ妄想の域から一歩も出ない話なので、自分の中での信憑性も全然ない。実際に、あまたある作品の中に出てくる「天才」の中で、読んでてこいつは本当に天才だと思えたキャラクタは少ない。なんというか、「すごいハッカー=単にキーボードを打つスピードがすごく速いひと」的な表現の枠内に収まっている「属性:天才」なだけのキャラクタが多い。それは、スタージョン氏いうところの九割のほうの天才像ってことかもしれない。残り一割は、天才っぽいのだが、これもじつは自信がない。おれにはなにしろボンクラの吹き溜まりを中心にして自我を形成してきたオタなので、天才の実物を見た経験が少なく、どういうキャラクタであれば天才かを判定する自分の天才鑑定眼に自信がないのだ。天才のむずかしさはまずそこにある。

  • 「物語作者は自分と同等の知能を持つキャラクタまでなら描くことができる」と仮定すると(ちょっと別の筋合いからの話だが、おれは「なにかを制作する際、作者は自分自身では認識できる領域から二段くらい下の解像度までの領域でしかそれを表現できない」という説を支持してもいる)、作者が天才であれば、天才を描けるとなる。けど問題はそこじゃない。「物語作者が天才でない場合、その作者は天才を描くことができないか?」だ。
  • 天才の天才たるを物語中で証明する最も一般的な方法は「正確な未来予測」とかだろう。
  • ただし、ここの部分に妥当性を持たせなければ、天才の天才たるを証明できているとはいえない。つまり、天才の予測はフェアな状況設定に基づいていなければならない。知りえる範囲の事実に基づいた予測ということだ。知りえない要素が重大だった場合、予測は正確に(知りえなかった要素ぶんだけ、その他雑多なゆらぎを含めて)外れなければならない。知りえない事実にも基づいた予測などさせてしまっては、そのキャラクタは単に超能力者であり、天才ではなくなる。
  • てことはつまり、推理小説の探偵には、天才的なキャラクタが多いだろう。けどなんとなくそれは違うような気がする。納得力の問題。多くの場合連続殺人の犯人を最終段階まで見抜けない探偵が天才的か?という。いやそれはそれでフェアな未来予測にこだわりすぎた結果か。フェアな推理小説の探偵は絶対に超能力者ではないのだから。とはいえ、やはり天才は結果出してナンボというような俗っぽい期待というか憧憬みたいなものは省きたくないという心理もある。超能力に拠らず、悲劇的な連続殺人事件の発生を未然に阻止してしまうような天才探偵の出現を。無茶すぎる注文だなとは思うが。第一それではお話にならない。頓挫してしまった殺人計画などに小説推理の余地はない。むーん。
  • 別のアプローチを考えると「結論に到達するのが速い天才」なら描けると思う。その天才が一瞬で到達する結論を、作者のひとは時間をかけて熟考してから描けばよいわけだ。登場人物が一秒を生きるあいだに、作者は理屈のうえでは無限の時間をかけられる。その場合の問題は締め切りとかか。天才ぶんの思考時間をのんびりエミュレーションしてる暇がちゃんとあるかどうか。作者の登場人物に対する時間跳躍(遅延)能力にも限界はある。最長の制約は作者自身の寿命か。
  • もうちょっと進めて、「結論に到達するのが速い」うえに「その結論が凡人には到達できないエキセントリックな代物」とかになると、わからん。時間さえかければ凡人にでも到達できる、のかどうか。とにかく勉強熱心で幅広く探究心がいっぱいあって、整理するのもうまくないと厳しそうだな。それ凡人か?天才未満ってことならべつにいいか。
  • 「記憶力が尋常でなく凄い天才」とかも描けそう。彼の脳内のテーブルに同時に展開されている情報系を作者のひとが地力でシミュレーションする必要はない。ノートでもメモ帳でもコンピュータでもなんでも使えばいい。ただし、記憶(情報)の管理の仕組みそのものについても考えたい場合には、へたなやりかたでは落とし穴がありそうな気がする(←脳内検索エンジンを、想定する天才のそれと合わせないといけない)。けどそもそもそういうひとって天才かなあ。天与の才には違いなかろうけど、いはゆる天才キャラとは違う気が。

原点に立ち返って、そもそもおれはどういうキャラクタならこいつは天才だと認定しているかという部分を整理してみよう。

  • 物語中で、そのキャラクタなりの天才性によった成果が示される。
    • おれは天才ではないので、天才がただ「天才です」とだけ示されて存在していても、それが天才だとわからない。
    • その成果は、物語の展開と直接関係していなくても構わない。
    • もちろん、仮にそのキャラクタが天才かつ超能力者という設定だったとしても、天才性の根拠は持っている超能力とは別個に証明されるべき(超能力と不可分な才能を天才と認定するのは困難)。これはなんというか「PAR を使ったプレイと素のスーパープレイは区別されるべき」的な話。
  • もうちょっと言い換えると、おれが考える天才というのは、「情報収集能力は並でも OK、情報分析能力と思考力は並外れており」、ここまでは頭だけの問題で、それからが、「自分が導き出した結論を現実と重ね合わせ、必要とあれば常識から逸脱した言動をとることをためらわない(既定の過去の慣例に従うより仮定の未来への備えを優先する)」という身体の問題。あらかじめ先回りして予測し考え終わっているだけではダメ。考えるだけで終わりだったら行動に反映されないのでそれこそボンクラと区別できないし、ことが起きてから「じつは考えてた」とか言い出しても後出しジャンケンになる。考えて予測したなら、自分の結論を信用し(ある意味責任を負って)、やっておいたほうがいいことをやっておく。それではじめて「ああこいつは天才だったのだ」と、おれにもそのキャラクタの天才性が過去形で確認できる。
    • もちろん、下手をするとそれはただの自信過剰の妄想と現実の区別がつかなくなったキチガイだという話になるわけなので、普段の天才はむしろ慎重な性格として描かれることが望ましい(確定できないことは断言しない、確定できるときだけ断言する)。自信過剰でも妄想狂でもないことは、そのキャラクタの予測した未来とやってきた現在の誤差の少なさ(または「結果的には大きく外れたにせよ途中までの正確さ」)によって証明されればよい。
  • なんというかなー、「未来に対する(根拠のある)確信」?

で、このような筋合いからの天才描写のことなど考えたのは、もちろん「サマー / タイム / トラベラー」がタイムトラベル小説で、かつ天才的なキャラクタが登場するからであって、もちろん作品における天才描写がこれだけだとは思っていない。黒田硫黄セクシーボイスアンドロボ」のロボは彼から見える未来とかなんの関係もなく天才だとおもうし。

あと感想だが、新城カズマ氏の描く主人公はおれにとってむずかしいので扱いづらいというか、感情移入のできなさ加減がむずがゆくてたのしい。おれはこれまでに読んだ新城カズマ氏作品のなかの主人公の、誰一人として「彼(彼女)がいまなにを考えているか」を現在進行形で理解できたことがない。氏によって心情が描写されてはじめていまそいつがなにを考えていたのか気付く。まったく感情移入できていないということだろう。主人公に感情移入したくて小説を読んでいるわけでもないので、それはそういうものであって、べつにいいのだが、氏の作品以外でこういう感覚というのはなかなかない。珍しい。といって、まったく理解不能というわけでもない。なんとなく「たぶんこういうやつだ」という概観は、わりとよくわかるのだ。同じクラスに居たかもしれないんだけど親しくしたことがなかったやつの内面、と同期を試みて、やっぱりうまくいかないよね、みたいなかんじ。あともちろん、氏の作品にはわりとよく天才的なキャラクタが登場するのでこれもむずがゆい。おれは天才が苦手だ。身近に居ないので不思議という話だ。いや居るのかもしれないがそれを感じる能力がない。尺度がないのだ。たぶん怖れなどとして意識されるのだろうが、そういうものを直視する覚悟が足りないのかもしれない。自分にもある選択可能性の権利を保留し、未来が現在になるのをただ待つという最もコストのかからない処世術。ボンクラだ。だからおれにとって氏の描く天才は、ある意味幻想世界の住人のようなものだ。和製のフワフワした無根拠なファンタジー小説などに出てくる妖精などより、氏の作品に出てくる天才はおれにとって妖精界の住人に近い。なまじ根拠が具体的なふうに描かれているのでよっぽど不思議だ。空を飛ぶとか飛ばないとか、うんこするとかしないとか関係ない。脳内に展開しうる無数の未来可能性を自在にできるなら、それは時空を操れるのと変わらない。誰にでもそれはできるが帯域が違う。現実と違って描かれるものはそのことが強調されているので不思議さが増す。

あと新城カズマ氏作品に天才がよく出てくるといっても、本作の主人公は全然天才ではない。ということにおれの中ではなっている。上でおれが定義してみた天才の型からはまったく外れている。頭はいいことになっているし、実際賢そうなのだが、しかし彼が作品時間中の大半の期間にとった行動をみるに、彼はどう考えてもボンクラだ。観察力はそこそこあり、十分なヒントをみつけるチャンスがあったのに、彼は身近な秘密計画の真相のほとんどを当事者から直接明かされるまでまったく見抜けなかった。鈍すぎる。適当に現在を持て余し弄んで自動的に現在を過去に未来を現在にしてゆくだけだ。ボンクラの鑑といっていい。「こちら側」の人間だ。後手後手で準備もなく覚悟も決まらず、周囲の人間に置いていかれまくっている。時間を跳ばない人間だ。世界を決定する立場にない。未来を確信する力がない。作中の言葉を借りれば、彼はまさしくただの「高校生」に過ぎなかった。もちろん本当の意味で時間を跳べる能力など常人は持ち合わせないのだから、彼を永遠に置いてけぼりにできるキャラクタは限られるにせよ。

しかしなんだなー、その彼のボンクラっぷりは愛せるなと思った。彼が居るので、タイムトラベルと天才が混在している作品世界でも、ギリギリおれとつながっている。彼自身のことは皆目わからなかったが、個人的なことがわからなくても「こちら側」の人間であることに変わりはない。将来を考えたり考えなかったりしながら田舎街に吹き溜まる高校生グループ、という要素の話だけでいうとおれはこれとかなり似た環境を過ごしたが、おれが属していた集団にはすくなくとも天才は居なくて、もちろんタイムトラベラーも居らず、平凡な意味においてボンクラなだけの連中ではなく、そしてたぶんおれだけは彼のような意味でのボンクラだった。ようするに、鈍かった。鈍くてもいいくらいに泰平に過ごすことのできる立場にあったという意味でもあるので、じつはこれは大変幸福なことだ。…なんかけっこう感想っぽい流れになってきたうえに脱線したようだな。あまり書くつもりはなかった。このへんでやめ。