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the social network

Facebook で A 氏の感想を読んで「こりゃ見ておかねば」と決意したのだけど、都合がつかずなかなか見に行けなかった。けどこのまま都合つけなかったら一生見に行く機会なんざないなとブチ切れたので、無理矢理見に行った。たいへんおもしろかった。

  • the social network
  • 一言でいうとギークやおい萌え萌えキュンキュン映画だったよ。でも肝心のザッカーバーグが鬼畜なのにマグロという体で CP の受攻見極めがむずい。おれの目はまだまだウロコ付きだ。
  • 本作でもそうだが、David Fincher 氏監督作品に出てくる車って、なんでもかんでも高級車に見えるのがおもしろい。流しのタクシーでも高級なタクシーに見えるという。ただ値段が高いっていうより、高級な電子機器とかいっぱい詰まってそうなかんじ。たぶん映画全編の SE にいちいち高級感があるからだろう。わずかに湿気を含みつつ触感はサラサラ、みたいな効果音。「邦ゲー遊んだあと洋ゲー遊ぶとグラフィックより先に SE に感動する」みたいな感覚に近い。あと、とにかくワックスがけ完璧。
  • オタとしては当然、同人版ソーシャルネットワークとかを連想するんだがゲスすぎていかん。
  • ザッカーバーグが感情面で大変アレというか、自己中心的というか、他者との感情の交歓ができないタイプの人間として描かれるので、観客がスクリーンに放射する感情の引き受け先はどうしてもサベリンに集中するように出来てると思うんだが、サベリンはその重責をみずみずしくこなしており素晴らしい。あんま関係ないけどおれ「LAST SONG」の修吉とかすごく好きなんだよね。いやザッカーバーグ×サベリンと修吉×一矢では全然シチュエーション違うけど、成功していく集団の中で、頑張ってもうまくいかなくて仲間とズレて弾き出されていく側に仮託されるパッションというか…、なんかうまく書けん。べつにそのキャラクタ一人ってんじゃなくて、シチュエーションに燃えるものがあるという話でもあり。
  • ウィンクルボス兄弟は、立場上いけすかない性根のキャラクタとして描かれるが、資産家の出で頭がよく身体能力もバッチリというパーフェクト超人で、おれはパーフェクト超人はパーフェクト超人というだけで偉いと思っているので、あんま反感湧かなかったな。というかウィンクル兄が、早々にザッカーバーグの足を引っ張ろうとする弟やナレンドラを抑止したりする場面は「ああ、こういうパワー持ちまくりのセレブの暴走を実際に抑止しうるとすれば、フェアプレイ精神教育ってのも存外捨てたもんじゃないわけだな」とか思って、普通に好感を持った(もっとも、そのように普通なら悪であろう役回りに擁護可能な余地を残す演出は、敵対するザッカーバーグのコミュニケーション障害的振る舞いに対して、観客が共感を抱けないことを自覚させるための意図なのかもしれないが)。実際の彼らがどうなのかは知らんが、映画の彼は立派に誇り高い人間と言ってよい。まあ結局訴訟には持ち込むんだけど、その経緯に対して同情可能性はある。すくなくともウィンクル父視線で評価すれば、充分「自慢の跡取り息子」ではあるだろうよ。まあその我慢の仕方自体が鼻持ちならないって感じ方もまた充分ありうるけど。
  • 映画全体、東海岸の大学ノリはかなり濃密に描かれていて大変興味深かったのだけど、シリコンバレーに移ってからの西海岸ノリの描写がいまひとつ食い足りなかった。寒くて陰鬱、アメリカ建国より古く厳格な大学、伝統と格式とフラタニティ、突破力を抑圧する東海岸。暖かく奔放、建国より若い元フロンティア、欲望が肯定され、ブレーキの壊れた高速でパワフルで狡猾な西海岸。みたいなかんじの対照だとは思うんだけど。とはいうものの、主人公を取り巻くモチベーション自体は西でも東でも変わらないし、若者たちのヒリヒリ感はどちらでも同じだ。ザッカーバーグにとって西海岸のほうがやりやすかった、という納得感がイマイチというか。それとも、これもショーン・パーカーの助言が果たして正しかったのか?という懐疑へ連結された不徹底さなのだろうか。
  • ショーン・パーカーが、鑑賞前に期待していたよりもはるかにアレな人物として描かれていて素晴らしかったのと(今後もしゲーム業界を舞台にした実話に基づく創作が映画化されるとしたら、水口哲也氏役は是非 Justin Timberlake 氏にお願いしたい!)、この映画本人から訴えられたりしてねえかと心配になった。まあそれでいうと実在する登場人物たちの描かれ方は結構ひどいから、べつに一人に限った話ではないか。

Facebook 時代のパーカーは、2010 年の映画『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー監督)で描かれており、ジャスティン・ティンバーレイクが演じている。パーカー自身はこの映画について「完全なるフィクション作品」と述べており、「この映画のようにクールだったらよかったのに」と語っている。

  • 画策によってサベリンを追い出し、その首班であったパーカーも(おそらくはザッカーバーグの密告によって)去るという場面で、電話を切ったザッカーバーグが、パーカーのアドバイスに従って作った名刺のパッケージを開けて一枚取り出し眺める表情が、この映画の名場面ということになるかと思う。最後まで他人の感情に頓着しない(というより理解できているように見えない)ザッカーバーグだが、彼自身には様々な感情があるし、それは映画全編とおして隠されていない。なかでもこれほど複雑にザッカーバーグの感情を想起させる場面はほかにない。とはいえ、そこで想定される、おそらく一言でいえば「うまくいかないもんだな…」とかに集約可能であろう苦みの明細は、ごく普通の人間の抱くそれとは微妙に違うはずだ、たとえば以下のような…「パーカーはやりすぎた(彼にそこまでの専横を許すべきではなかったと、今回の件で気付いた)」「サベリンには悪いことをした(けど彼は契約書をよく読むべきだった)」「パーカーのアドバイスは間違いではなかったし、融資の件で役に立った。けどもう充分だ」「Facebook は融資を得て、巨大なチームになった。ここから先に彼は要らない」「要不要でいえばサベリンも要らなくなっていた。やはり問題はない」「しかしサベリンは親友だったし、パーカーは憧れの伝説だった」「なぜだ?」「ほんの些細なことだ、タイミングのズレとか…」「これでよかったが、こういうふうにならなくて済んだのではないか?」。おそらく彼は、自分が悪いなんてこれっぽっちも思っていない。「なぜおれの人間関係はうまくいかない?」などという素朴な疑問に辿りつくことはない。そしてこの一連の離別は、物語冒頭で彼女に振られたときほど彼を傷付けることもない。ビールを痛飲もしないし、Facemash のようなサービスを突発的に立ち上げたりもしない。やるべきことは決まっている。立派にでかくなった Facebook を、さらに良いサービスにし続けるだけだ。

ラストシーンに至るプロセスにおいて、ザッカーバーグ完全に孤独なのがわかりやすく、素晴らしい。煩雑でギクシャクして、まるでうまく疎通できていない訴訟シーンでも、そこにはまだ対決なり齟齬なり、良かれ悪しかれコミュニケーションの可能性があった。けどその決着もナレーションでサッサと流して、シーンとして和解も決別もないまま、ただザッカーバーグは一人になる。最後に彼と一緒に居た人物も、彼を見放すように退場する。そうして安息を得た彼のとる行動、その性懲りのなさがかわいい。成功しても傷ついても変わっていない。「巨万の富を得て、大切なものを失う…」みたいなありがちな枠組をすり抜ける人物像。人間らしさ、それがどうしたというんだ。そういうものを超えて映画のザッカーバーグは魅力的なキャラクタになった。元々ソーシャルネットワークを持たない人間がソーシャルネットワークサービスを作り上げ、成功していくというドラマには何ともいえない味がある。彼は「他人がそれを欲しがるだろう」と思って Facebook を開発しただけで、それを活用して自らのソーシャルグラフを豊かにしたかったわけでもない。彼にその能力があり、情熱なりパワーなりがあり、ソーシャルという巨大なうねりの中で、周囲が勝手に激動していっただけだ。一心不乱に邁進し、まわりの迷惑顧みず、それがゆえに周りから(彼にしてみれば)足を引っ張られ、溜息をついたり怒ったりしながら、厄介事を片付けて仕事に戻るザッカーバーグは只々かわいい。萌える

…そしてそのうえ 2011 年現在、Facebook ではページをリロードする必要がないのだ。そんなところに映画や Facebook 社の意図があるわけもないが、これは笑った。ザッカーバーグは前進している。彼が映画の中の人物像に過ぎなくとも、リアルタイムウェブの向こうで無表情にキーを叩いているザッカーバーグの姿が見える。最後のシーンで、彼が自分の感傷をほとんど自覚しないまま即物的に「誰が F5 キーなんか押したいんだ?」と考えていたのかもしれない、と思いながら、たいへん満足して映画館を出た。すがすがしいものを見た。

もちろん、おれはソーシャルネットワークを一人で見に行ったのだ。まあおれが映画館で一人であることと、ザッカーバーグがスクリーン上で一人であることは、まるで意味が違うんだけど。