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動くな、死ね、蘇れ!

K さんおすすめの映画とのことで、見に行った。おもしろかった。おもしろかったが、胸板にいつのまにか乾いた風穴が開いたような気分になった。どんよりした気分というわけではなく、むしろさっぱりしているというか、呆然とするというか、ひとに幾多ある感情のうちけっこう多くは後天的なものだということがわかるというか、無感覚とも違うのだが、扱いに困る空白が生まれるかんじ。「動くな、死ね、蘇れ!」というのはなんともすごいタイトルだが、これはどうもロシアの子供のあそびで使われる掛け声からきているらしい。ほんとかどうかは知らない。

  • とにかく第一には「当時のソ連に生まれなくてよかった」と思った。べつに日本最高とかそういうのではなく、作品で描かれている世界では生きたくないという話だ。だけどそれはどうかなとも同時に思っている。現代日本の価値観とかに凝り固まった後天的なおれだからそう感じているだけのことだ。視点も身体も前提もなく単にソ連に生まれれば、それはそういうものとして生まれて死ぬだろうとも思う。その仮定の中でおれはしあわせかどうか、それが現在のおれから見てしあわせかどうか、あるいはその「しあわせであるか否か」にどれほどの価値があるのか、ふたつの異なる仮定の中間を取り持ちうるような価値とは一体なにか、などなど考えるべき事柄は無限に細分化され果てがない。果てがないという想像にあそぶことができるおれはつまり余裕があるということで、余裕があれば当然人間は甘くなる。おれが脳天気に「それはどうかな」とか思っていられるのはヌクヌクと育ってきたからだ。だがヌクヌクと育ったおれが取ってよい立場は、脳天気に思ったりその是非についてループ思考をもてあそんだりする以外のなにがあるというのか。しあわせであるのに越したことはないだろうが、しあわせでないならそれはそれでも生きていずれ死ぬぶんに支障ないと感じているおれはたぶん十分にしあわせであるはずなのだった。
  • 少年がとにかくすげえ馬鹿だ。まさに底なし。しかも常に最悪の籤を引く。このように底のない人間は健全だ。その健全さは社会を正確に反映する。それは暗く狂っている。狂っているということは、暗くはないのかもしれない。灰色がない。白と黒だけ。少年はスクリーンのこちら側の言葉でいえばワルガキだが彼に自分はワルガキだという自覚はたぶんない。そんなこと誰も教えない。作品に出てくる大人は誰一人彼にものを教えようとしない。教わらない世界では、学ばなければなにひとつわからない。学びとはそれ自体に気付きを必要とする。だが少年は馬鹿で想像力もないので洗練を知らない。突付いて叩いて反応をみて傷付きながら一日一日生きている。
  • 悪戯に気付いたおっさんは無言で走ってきていきなり殴りつける。手加減なしだ。後も先もない現実だけを生きている。大人の子供に対する視線ではない。社会が狂っていて、未来が見えないからだ。自分の未来や子供の将来を想像する元気がない。関係を維持し育てようとする常識は余裕に支持されている。そういったものがスクリーンの向こう側にはない。殴るだけ殴って自分の居るべき場所へ駆け戻っていく。絶望的な光景だが、妙に明るい。
  • 戦傷者、戦争捕虜、弾圧、収容所、崩壊した家庭、労働者たち、発狂する人々、発狂することもできない人々。少年の視線上の世界は生き地獄を思わせるが、世の良識が崩壊したかに見える社会体制は一方で非常に強力でもあるようだ。戦争があったからには軍隊があり、行進練習で怒鳴り散らす男にはそれをするだけの権威が集約しており、収容所があるからにはそれらを含んだ行政があり、人の集まる広場やホールがあるからにはそれなりの市場や暮らしがあるはずだが、それらがどう関連し、最終的に自分を取り巻く社会として結びついているのかが見えない。映画の中の少年の視点にそのまま没入していったような錯覚。少年が馬鹿だから、その目を通すおれにも世界の見えざるものが見えないのだ。刹那的な現実が強烈すぎてうまく想像を働かせることができない。できないように誘導されているのか、それともおれの土地勘のなさゆえの無感覚か。前者ならおれはそのような映画を見れてしあわせだし、後者ならおれは生まれた時代と国の違いによる相対的しあわせものだ。
  • K さんが「シータが王女じゃない暗黒ラピュタ」みたいな表現をしていてなるほどと思った。この決して善悪に染まることのない少年の無邪気なまなざしを導くツンデレのまた健やかなこと。

あとやっぱこの映画やってたような映画館(渋谷ユーロスペース)に普段からきてるようなひとはサブカルなのかなあと思った。オサレそうなひともそうでないひとも居たのであれだけども。移転だかリニューアルのためしばらく閉館するとのことで、(映画の評判もあってのことだろうけど)客席がものすごいギュウ詰め状態だった。中に本筋っぽいおっさんとかちらほら居て、ああこういうひとたちが必要としている場所がちゃんとあるのはいいことなんだろうなと思った。あまりにちゃんとしたおっさん風のおっさんだったので、べつになんというかすごいソ連映画好きってわけじゃなくて、単に近所に住んでるひとだったのかもしれないけど。