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永久帰還装置

自分になにかよくないことが起きたら落ち込むが、おれの場合ほかのひとと比べて落ち込むレートがわりと低いというか、そういうのともちょっと違って、いい歳こいてもいまだ生き方にどこか投げ遣りなところがある。どっち方向にせよ舵取りがいい加減。似たようなところで夏目漱石「坊ちゃん」の主人公の「生まれついての無鉄砲で損ばかりしている」というアレがあるが、おれの場合たぶんべつに損ばかりしているかんじでもないし、あっても自業自得だし、無鉄砲というよりは投げやりであって、なにごとにも粘り腰が足りないという話だ。ともあれこれは、短期的にはガサツというか痛覚が鈍いので適当に生きていられて便利だか、長い目で見てよくないことで、ダメージ蓄積の自己診断が遅れて、だいたい気が付いたときにはどうにもならず見ている方角へ向かってとにかく歩くよりほかにやることがなくなっている。本来ひとの生き方というものはもうちょっと自由度というか不自由度というか、わかりやすく確保できる選択の機会がいくつかはあるはずなのだが、おれの場合頭がそれを悩むというよりは、体が結局自動的な一つしか選べなくしていくので、頭はなんのかんの考えるだけ考えたあと飽きて放置して出てきた書類にハンコ押すだけという処理になってる気がする。考えるのは好きだけど比べるのは嫌いなのだな。これは「迷いのない生き方」とは少し違う。「迷いのある生き方」はいやだ、面倒くさい、けどふつうにあれこれ見て勘案しながらも蛇行せず暮らすには能力が必要だ、それは難しかろう、だったら「迷う余地のない生き方」ならどうだ、というかんじで(それこそ最終的に、自動的に、仕方なく)決定されてる気がする。

順番を換えて、先行きは全然見えなくてまずいけど、当座のところは自分の痛みに鈍感に生きてこれていて便利だなというのがポジティブな理解ということになるのだが、しかしどうもそれもまた少し違って、おれの鈍感さは、自分の先行きとのバーターだけでなく、幸福を他人に仮託することによって得られているようだなとわかった。ちょっと説明がむずかしいのだが、こんなかんじだ、「おれの人生はたぶんあまり多くの幸福をつかむことがないけど、たとえばおれが小学校のときよく遊んでいた I くんとか M くんとか J ちゃんとかがそれなりにしあわせに暮らしててくれていればいいや」。でもべつにそうした彼らと現在も親密に連絡を取り合っているのかというと全然そんなことはなく、ていうかたとえば小学校のときのメンツの話だと最後にみんなで会ったのって中学校の頃とかで(あまり関係ないかもしれないが、おれは小中高大すべて「前の学校からその学校に来たのはおれ一人」という人生だった)、まあ一番仲の良かったあたりとはいまでもごくまれに直接間接の連絡があるけど、クラスメイトの大概は卒業アルバムの写真の中の人物だし、卒業アルバムなど五年に一度も参照しない。我々は外向きの車座で流れた時間のぶんだけ互いに違う道を歩いた、だから今会ってもまあ懐かしいっていうか積もる話の十や二十はあるかもしれないけどそれと同じぶんだけ言語の隔たりやわだかまりもまたあるだろう、いつもいつまででもコミュニケーションのチャンネルを確認しあうことだけが縁ではないというか、同じ時間を生きており違う時間は生きられないという保障と、そしてこの中の誰かは確率的に幸福な人生を送れているのではないかという、それだけぶんがあれば、あとはまあべつにいいかなという。書き出すとなにかそれも違うなと思ったけどまあいい。おれにとって彼らは思い出だが、それは過去の話ということではない。

べつにそのための助力だとか応援だとか一切しないし、そもそも今どうしてるかとか積極的に知ろうと思わないんだけど、彼らになるべくならしあわせでいてほしい、と結構真面目に思っていたんだなあということがわかってきたのはここ数年のことだ。つまり死んだり、人生につまづくやつが出てきた。誰かがうまくいってるとかふつうだとかは取りざたするような話題でもないのでアレだが、そういう話だけは伝わるべきものとして、いくつもリレーを経て、おれのところにまでか細く伝わってくる。年相応に背負うべきものも多くなってきたということか。そのぶん生きがいも大きくなってきている頃合ということでもあるが、抱えるものが増えれば倒れるやつも出てくる。恩師の不倫がバレて大騒ぎになったとかそういった話なら(わりとシリアスな話ではありつつ)笑い飛ばせるが、もはや実質的にはおれとなんの関係もなくなっている彼らの不幸の話を聞くと、悲しくはならないが、なんだか心に空洞が出来たような気分になる。なるほどなー、これが喪失感か、つまり、思い出を失っているのだな。失っているというか、修復不能のダメージか。思い出とは現在であり、過去ですら記憶という現在形なのだから、へこむのは当然だ。それにしても堪える。なんかグッタリきて寝れなかったりする。おれは自分自身がなにか取り返しのつかない事態に陥ったとしても、たぶんこんなには落ち込まないんじゃないか。というか、そういうときはたぶんもっと短絡的な、悲しみや怒りのほうで手一杯で、喪失感とかにまで気が回らないだろうから、同じようには判断できないという話か。いずれにしても脆弱性であり、拠りどころのひとつだったのかもしれない。そう考えるようになった。