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オタ宴会 - Cさん迎撃 OFF

PG 1/60 GAT-X105 STRIKE GUNDAM

Cさんが同人誌即売会コミティアに参加するため上京するというので歓迎の宴会をすることになった。このような形態で行われる宴会のことを、オタ世界では伝統的に「○○さん迎撃 OFF」を呼び習わす。遠来の客人を在郷のオタ一同でにぎやかに迎えようではないかみたいなノリとでもいうか。なんで「迎撃」なのかは不明。

宴会トピック。

  • 同人誌をいただく。
  • モヒカンメソッド発動
  • ソクラテスメソッド発動
  • ユリイカ増刊上での「オタク vs サブカル」問題
    • 「オタク vs サブカル」という名前が同じなので自分でも危うく混同しがちなのだが、おれの考えているような「オタク vs サブカル」の問題と、ユリイカ増刊上での問題は、あまり関係がないというか、ほとんど無関係なのだった。プレイヤ層はある程度重なっているのでやはり同じではないかと考えてしまうところはあるのだが、やはりおれ自身の安心と不安の方角とは別の話だ。架空の戦争を代理で戦争し、その継承戦争後の混乱、が演じられている。そんな何重にも仮構された戦場では、オタの実体やその暮らしと関係しているとは到底いえない。おれはファンタジー世界の住人ではない。
    • ユリイカ増刊とかその前後のオタ議論などから漠然と感じたのは「おれはなんの(誰の)子供たちのうちの一人なのだろうか」ということだ。おれはオタとして先人の誰になら敬意を払うかという話でもある。木の股から生まれ親を持たずに育ったような顔をしていても、人間は社会から無縁ではいられないのだから、おれの中にも架空なり代理なり継承の成分は確実に流れている。おれはそうしたものをそうしたものとして受け継いでいくつもりはなかったし、現在もないので、先人の労苦に対して「ごくろうさまです」程度の感想はあるけど「おまえらの作ったハリボテに興味はない」というのが実感だ、が、それはスタンスの話で、結局そんなおれでもハリボテとそうでないものの区別などつけることはできないのだ。物心つく前に準備された嘘を見抜くためには教養が必要だが、教養自体汚染されていればそれもわからない。自分がなにと向き合っているのかは比較的早い時期からわかるが、自分がなにによって作られているかはいまだ見えず、いずれ向き合わなければならない。
  • 「オタク vs サブカル」問題関連
    • やはりサブカルのひととは和解したほうがよさそうだという気分は改めて感じた。まあ再三の話だがオタとサブカルに直接の筋合いはないわけなので和解ってのもへんだが、無神経な態度は改めたほうがいいような気がするというか。というのも、「オタクはサブカルに対してものすごい失礼なことをやってきていたんだな」ということもまた並行してわかってきたからだ。
    • 一言でいえば「オタクのいう「サブカル」には、「ガイジン」と同程度に卑語として受け取られる可能性がある」ということだ。
    • たとえば「○○さん」という人物を侮辱する最悪の方法は、「○○さんは馬鹿」と触れ回ることではない。「○○さん」という名前の持つイメージを歪め、「○○さん」と発しただけで、馬鹿を指したのと同じ状態になるような状況を作り上げることだ。対個人から拡げて人種差別とかを考えればよりわかりやすい。そしてこのような状況は当事者の悪意や害意、敵意や憎しみなど負の感情などなくても作り上げられる。すくなくともその状況の普及と深刻化は、悪意のないひとたちの言説が担う。無知と無関心だ。興味がない。おれの人生と関係ない。どうであろうと知ったことではない。どうでもよいので考慮しないし、遠慮しない。で、おれについていえばサブカルはどうでもいいもの(←ここが重要で、「ひと」ではないのだ)なので、用語「サブカル」を無邪気に取り扱うことになんのためらいもない。自分たちではない。仲間ではない。よそ者。同格の他人と見做していないということだ。
    • このような態度では、その名に拠ってるひとからしてみれば「オタクはサブカルを憎んでいる」「オタクはサブカルを迫害している」「オタクはサブカルを攻撃している」などと思われ怒られても仕方なかろう。彼らは彼ら自身を相手にもされず、ただ彼らの呼び名だけを汚されているわけなのだ。間接的な苛立ちだ。で、汚しているほうからすれば「それは汚したらまずいものだ」という感覚がない。ひとの名誉がかかっている用語だと思っていないからだ。オタがサブカルという言葉を発するとき、それはほとんどが冗談で、罪のない笑い話だ。そして害意がないから余計タチが悪いのだ。これはまずい。
    • で、それをユリイカのオタサブ話につなげると、やはり、おれが当然と思っている感覚は歴史的には誰(ら)によって作られたのかという話になる。加担するつもりなどなくとも後の人間は先の人間の影響下にある。誰かの子であり誰かの孫である我々は、既にある良い波にも悪い波にも乗っかってしか生きられない。手の届く範囲を平らにしたところで、その水位は周辺との兼ね合いでしか決定できない。おれはおれのものだが、同時におれのものでないものの集合体でもある。おれは誰らの子供たちの一人か。おれの無邪気の根底には誰かの作為が働いていたのか、いないのか。
  • オタクの定義問題
    • このところバックグラウンドでわりと熱心に煮詰めていた問題。
    • 残念ながら、現時点では既に「自称としてのオタク」は消費されたと言わざるをえない。
    • となると他称としてのオタクの比重が増すが、直接的にそこを支持するのはいかにも危うい。再三の話だが(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20050716#p3)、オタク市場はオタの実態を反映するが、オタの実態そのものとはかけ離れている。
    • ならどこに重点を置いてゆけばよいかとずっと考えてきたのだが、結局「オタ友からお前はオタだと認定されたひとがオタク」というあたりに落ち着いた。相互オタ保障とでもいうか。それ以上は積めない。危うい。フラットになったということでもあるだろう。
    • もちろんこの考え方にはいくつも大穴が空いている。たとえば、
      • 友人が一人も居ないオタはオタでなくなった、ということか(オタの招待制 SNS 化)。
      • 相互に認定しあう関係には基準がなく、「その場の全員が(実際には)オタでなくなったとしても、そのことに気付かないままオタコミュニティとして存続していく錯誤」を監視できない。
      • 結局市場との関係性でしかオタとしてやってゆかれないと認めている(まあそこは認めざるをえまい)。
    • など。ついでに関連チャットメモをコピペしておく。
  • 「客観性を持って人に伝えようとする態度がサブカルとするならば、人に話をして面白がらせられるオタクはみなサブカルというか」
  • まあ確かにオタは、説明が苦手ってのはありますね。結局「態度でわかれ」という様式になるので、ナアナアの付き合いを長く続けないといけないかんじ。ボディランゲージベースというか。まさに「空気」がいちばん大事。そのへんでもホモソーシャルっぽいんだけど。
    • これについては、ネット以降徐々に変質しつつはある。ネットでは態度を態度としては示しづらいため。ただ「態度としての言動」はありえて、混じり合っている。
  • ちょっとまえまで「金で買えるモノ買ってたってオタクじゃない。金で買えないモノを手に入れてこそオタだ」っていう抵抗言が成立したけど、いまはもうそういう時代じゃない。なんかもう個人的体験ベースではオタク名乗れない気がする。オタク社会の SNS 化。「トモダチ一人以上居ないとオタクネットに接続されているとはいえない=オタクではない」みたいな。
  • おれの場合は「ああおれもオタクとしてようやく、イメージファイトでいうと六面まで行けたんだな」てのが、やはり個人的体験とか自分にしか価値のないレアグッズ(というか価値がないから量産されないもの)を手に入れたときだった。だが、ユリイカ誌上でばるぼら氏とかはそれをサブカルのアイデンティファイに使ってる。
  • 「交換不能な自分の経験を入手できたときと」
  • 90 年代後半、本で読める知識はもうあまりオタクの役には立たんかなと思っていた。知識は必要なときに集中して詰め込めばいいだけだから(←ここは、現在だと「検索すればいいから」に置き換わっている)。
  • 「似たような年代に、知識なんてみんなネットにあるんだから、そういうオタクの知識競争は無駄になると言っていたひとが居る」
  • もちろんネットにある情報の信頼性はある程度見切っている。濃度の高いオタコミュニティや独立系のオタ仙人との接触等でそれは体感した。既にネットを介さずコミュニティを形成し終わっているような濃い情報源になりうるひとたちは、結局全然ネットには情報を出さない。知識は等価交換が行える場でこそ最も多く流通する。彼らと知識の等価交換を行えるようなひとがネット上に居ない、というか、それができるほどのひととは既に知り合い終えている。だからネットには「今後の情報」しか出ない。そしてそれは印象操作のためにだけ使われるくらいに考えたほうがいい。無償の知識には方向性が埋め込まれてある。
  • ただ、それでも、ほかのオタと「とりあえず話合わす程度」までなら十分な質量といえてしまう。たとえばエロゲー全然知らなくてもエロゲオタの話に相槌を打つ程度の情報ならネットで補完できちゃうとか。
  • 「井戸端会議用情報ですな。ネットで「知ったか気分になりやすくなった」というのは大きい」
  • オタクであり続けるためには「オタ友と接点を持ってる」だけでよくなってるので、オタクを維持するためには、それだけでよくなっちゃってる気が。
  • オタ友と繋がるためのオタク情報を効率よく入手するのがオタク。相互オタ保障というわけですよ。で、クロスチェックにバグがあるので、「もはやオタではなくなっても、それに全員が気付けない」という状況が。
  • メディアが「これを消費するのがオタク」と定義してくれれば、それで安泰なのかもしれない。
  • 地方東京問題
  • 電気 GROOVE を「電気」と略すか「電グル」と略すかでファンの系統がまったく違うという問題。ラジオとかどのメディアで知ったかの差らしい。
  • 「なんか音楽好きのひとはエウレカセブンが憎いらしい」問題。
    • BECK」アニメ版のときもよくわかんなかったけど、今回もますますわからん。
    • 音楽好きのひとの気持ちのありようは不可解。音楽はあくまで娯楽の一部で、だからそれをきっかけにした愛だの恋だのはアリだと思うけど、それを根拠に憤りや憎しみの塔が立つような地盤とは思われない。ゲームなどマルチメディア前提で趣味にはまっていったひとにとってみれば、そのような区々たる部門に固執するのは異様に思える。
    • それゆえ、彼らは音楽を時代や土地とリンクさせ全体としてシーンと捉えることによって、彼らが心情を預けるに足るものとして凝り固めてきたというわけか。おれは音楽にシーン性を認めていないから、彼らの気持ちがわからないということか。そのような凝り固まりの性向自体はオタ的に好ましいことであるのに違いはないのだが。
  • 皆好き勝手に喋ってて、全然Cさん歓迎会の体を為していない問題。

座席が横に長く、同時並行していくつかのオタ話が並行しがちだったので、人口密度がゴバゴバ流動する宴会となった。もうちょっと円卓に近いほうがよかったか。サロン的な雰囲気のがいいんだろうけど、これくらいの規模だとホームパティというわけにもいかないだろうし。このような場に対する会場設定は要検討なのだなあ。