チャット関連メモ
最近の非オタ話の要約。要約なので細かいニュアンスは端折ってあることに注意。
- 地方 vs 東京話
- ※ おれの場合「地方と東京にアンジュレーションを感じるのはサブカルで、オタは地方 vs 東京話に当事者視点をイマイチ取れない」と思っている。
- 「東京人は恵まれた環境の渦中に居ながら、「あえて選ばない」という自由を持ち合わせている」(→http://d.hatena.ne.jp/dogplanet/20050716/p1)
- 「まずいラーメン屋の前でキュー作ってるへんなひとたち」といった東京風景など見たあと読むと同意しづらい(田舎人的にいえば、飯屋などというものはわざわざ並んでまで行くようなところではない=彼らが「あえて選ばない自由」を行使できているとは思えない)。まあ一定のレギュレーション下での微差を競うよーな愉しみ方(挑発的マーケティングに染まった)ひとたちなのだろうと思ってんだけど(美味さ不味さのスケールが細かく、相対的)。あと東京の場合全般的にメシがまずいので(水が不味いのだからこれはしょうがないこと)、僅かでもうまい店で食いたいというマッハの心理が背中を押してるというのもありそう。
- 予想できる反射→「まずいラーメン屋にあえて並ぶ自由!」
- 自分つっこみ→これは「オタは○○」などと自分の立ち位置から定義してみても、外からみればオタにもいろんなひとが含まれていることから、「△△なオタも居るじゃないか」とか簡単に合致しない材料を探せてしまうといった基礎的車輪止め技術にすぎない。まあ車輪止め技術には、選択的偏見を融和する効果があると思うのでそれはそれで有効と思う。
- 「まずいラーメン屋の前でキュー作ってるへんなひとたち」といった東京風景など見たあと読むと同意しづらい(田舎人的にいえば、飯屋などというものはわざわざ並んでまで行くようなところではない=彼らが「あえて選ばない自由」を行使できているとは思えない)。まあ一定のレギュレーション下での微差を競うよーな愉しみ方(挑発的マーケティングに染まった)ひとたちなのだろうと思ってんだけど(美味さ不味さのスケールが細かく、相対的)。あと東京の場合全般的にメシがまずいので(水が不味いのだからこれはしょうがないこと)、僅かでもうまい店で食いたいというマッハの心理が背中を押してるというのもありそう。
- 「だけど、もしも「東京」や「上京」という幻想が消えたら、「今ココ」でダメなヤツらは何処へ逃避すればいいんだろう?」(→http://d.hatena.ne.jp/dogplanet/20050716/p1)
- オレンジレンジはダメだと熱弁するひとたち問題
- ※ おれの場合オレンジレンジの曲を、それと知りつつ聴いたことがないので当事者的な視点は取れない。
- インターネット言説は、現状でいうと「ゴロのひとたちによる印象操作に有利」≒「話題にしたほうが負け」ルールが横行しているので、そこに気付かないとだめなのでは。
- いや、彼らは小さな声でもみんなが言えば、オレンジレンジのファンたちもいつか間違いに気付くと思っているらしい。
- 「オレンジレンジパクリ糾弾サイトは、元ネタ紹介サイトとして機能している」説。
- なら「オレンジレンジの曲が大好きなみんな!きみたちのためにその他の素晴らしい音楽たちをレコメンドしてみたよ!」みたいなかんじで、元ネタ音楽を死ぬほどポジティブに紹介するサイト作ったらみんな幸せなのでは(ものは言いよう派)。
- 「いや、彼らは小さな声でもみんなが言えば、オレンジレンジのファンたちもいつか間違いに気付くと思っているらしい」再考
- 作品と人格を別問題にできない人々問題
- 岡村靖幸氏が覚醒剤使用で逮捕された件で、岡村氏本人を擁護する意見がたくさんあったという話(於 mixi)。
- 岡村氏の音楽に手錠が掛かったわけではないのだから、岡村氏の音楽のファンのひとにとってそれは「間接的に関係する」話題ではあるが、それ以上ではないはず(岡村氏本人を擁護する筋合いのあったひとはそう多くないはず)。とはいえこの、「間接的に関係する話題」の扱いってむずかしい。スタンスを取り違えてしまうひとが多く出るのはしょうがないかも。まあ当分は店頭から CD 回収されたりとか、直接の影響も避けられないんだろうけど。とはいえそこは反応してはいかん気も。ううむ。
- そういった意味では、本人擁護がバリア内の環境(mixi)に多く為されたというのは、個別のバランス感覚が正常に働いてることの証明なのかなとも思える(言い方がへんだが「箍をゆるませてよい環境」としての SNS 感というか)。
- でもこのような事例を見ると、音楽だろうとなんだろうと、作品表現を通じてやはり最後は制作者の人柄に惚れ(たと錯覚し)てもらわねば商売が大きくなることはないんだろうなとも思った。気持ちよく人柄に惚れたと錯覚できる作品を提供できるひとたちの商売は温和に回るものだ。音楽なら音楽自体、絵なら絵自体についての興味や情熱だけで大金を支払える人類ってそう多くはないよなというか。その少ない人数が富裕層に集中してればよいわけなんだろうけど。人類共通の興味の対象になりうるのは人類自体でしかないわけなんだよな。そしてそれはふつうだ。ふつうはオタじゃないのだ。
- 作品と人格を区別しない=ムラ社会 or ケータイ族?
- 作品への批判と人格攻撃を区別できない人々?
- コミュニケーションベースの人々。コミュニケーション上に意味を構築するケータイ族にとって、情報の基準単位は人間?