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乙女魂 ソフィー・ハッター

コミックマーケット67開場前041229 | 3

先日見た「ハウルの動く城」の感想(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20041127#p1)の続き。というかソフィー関連まとめ。

ソフィーについて考えてみようとして困った。ソフィーの顔が思い出せない。漠然と思い出せるのはたくさんの年齢の女の顔で、ではどれこそがソフィーであったかとイメージを固定しようとしてもフラフラぼやけてひとつに定まることがない。これは(当然だが)映像作品として極めて珍しいことだ。イメージの固定できないキャラクタなどイメージに描けないではないか。「MIND GAME」に登場した「神」のようなアクロバティックな存在。

きっかけは最後のシーンを回想してみようと思ったときだった。空の青に雲の白に城の緑に黄色のワンピースと、色の印象を評価しているあいだに終わってしまったかんじで、あのときソフィーは確かに居たけど、ではあのシーンでソフィーがどんな顔をしていたのか(そもそもあのシーンでソフィーの顔が画面に出ていたかどうかさえ)思い出すことができない。どのみち印象に焼きついていないものは妄想野では無いことと同じなので、だからおれにとって最後のソフィーは「顔のない女」になっている。

ネット感想見て回ってるとソフィーの声優の倍賞千恵子氏が、老婆ソフィーも少女ソフィーも両演していたことについて賛否があったけど、おれはあれでないとだめだったろうと思う。確かにアニメの少女然とした声ではないというか、年齢のよくわからない若声だなあというかんじだったが、べつにそれだからだめということはなくそういうキャラクタの声になっていたし、あとやはり、あれほど顔の変わるキャラクタであれば、声は同じにしておかないと少女→老婆ときてまた若返ったとき、同じソフィーと認識しづらくひっかかっただろう。それに、ことはそう単純ではない。単にギャル→ばあさんコンバートだけの問題ではないのだ。

とまあ、ちんたら書いてたら日が暮れるので結論だけ。以下垂れ流し。

  • ソフィーは作品中でどんどん年齢が変わるので、終盤のソフィーの変化は「ソフィーの若返り」に見えがちだが、そうではない。ソフィーは作品中のある時点から、徐々にソフィーでなくなっていく。
  • 別人に置き換わるということではない。連続性は倍賞千恵子氏が保障している。かつてのソフィーと、かつてソフィーだった彼女の魂は同じもの。しかし、物語の向かい風は彼女が 18 年かけて形成してきた「ソフィーという殻」を奪い去る。自分から捨てたわけではないが、とりたてて守ろうとはしていない。プライオリティの問題に見えた。そんなことに構っていられない状況だった。
  • シェルは剥がれ落ちるに任せて最高速を維持したまま駆け抜けるゴースト。コアはひとつ、「わたしはハウルのことが好き」。彼女はハウルを助けたい一心で走る。ハウルを好きな自分がソフィーでなければならないというような執着が見えない。ソフィーの最後の視点は TPS でなく FPS だったろう。自分の姿は興味の対象でなくなっている。ここには魔法が働いている。後天的な外殻を(結果的にでも)捨てていいという決断は、それはおれなどからすれば非常な勇気だし、または狂気だ。まともじゃない。残り二人の魔女にもこれはできない。彼女たちでは、それを失ってしまえばハウルを好きであることも忘れてしまうだろう。ソフィーしか踏み込めない世界。ソフィーは、やはり魔女だ。または彼女には魔法がかかっている。
  • 扉をあけて戻ってきたときから、彼女はもはやソフィーではなく、単にハウルのことが好きな少女でしかない。そしてハウルは彼女によって救われた。結果的には、ソフィーでなく彼女でなければハウルは救えなかったといえるだろう。仮定はいくらでもできるが決定は覆せないというのが視聴者の立場だ。
  • 彼女を、それでもソフィーと呼ぶことは可能だろう。徐々に魔物に近づいていったハウルが、ソフィーによって人間側に戻ってこれたのと同じこと。ただ、完全に昔のソフィーに戻ることを彼女は望まないだろう。彼女の変身(脱身?)は物語世界への適応でもあった。
  • なんでキャラが変わったとわかるか。
    • 最初の頃の若ソフィーと、終盤で登場する若い彼女は、全然デザインがちがうから。髪の色が銀色のままだったとかそういうあれは些細な問題だ。顔の造形から違うのだ。作画の乱れとかではありえない。
      • 若ソフィー→どっちかっていうと赤毛のアン
      • 終盤の彼女→ガワが剥がれて素体となった彼女は、いはゆる「宮崎ヒロイン」の顔になっている。ああ宮崎氏作品だと一発でわかるように集約的な顔。ここぞという場面で「真・打・登・場!」とばかりにドーンと出てくるその演出は、あきらかに意図されたものだ。
      • 若返りは結果的なものとみたほうがいいだろう。ソフィーの殻が抜け落ちたなら、経年老化もついでに剥がれるのが当然だ。
    • ソフィーと彼女の描かれ方の違い。
      • ソフィーは「(とりたてて)美しいわけではないキャラクタ」として登場し、実際にそのように描かれる。アニメでヒロインが美しくないといっても、演出レベルで実際に美しくないふうに描かれる状況というのはそうそうないわけだが(←デザインや作法などから)、しかしハウルのソフィーは確かに「美しいわけではないキャラクタ」としての合意が、デザイン・演出両面で成立しているように見えて、ああこれはちょっとすごいことかもなと思ったのだった。物語のビッグウェーブが到来しても、それに乗っかれるような格は見えない。なにごとも自分なりの裁き方を心得た、堅実な「ふつうのひと」だ。
        • ソフィー時代のおもしろシーンや萌えシーンの多くはギャップによって成立している。たとえば、序盤でハウルと空中散歩するときのソフィーのあわてぶりは、あれはソフィーが「かわいいわけではないキャラクタ」であると自他共に認めているという前提を踏まえてこそ萌えなのだ。ここでも倍賞千恵子氏の持ち味が光っている。
      • ソフィーでなくなると、以降の彼女は「美しいもの」として描かれる。主人公格を自力で勝ち取る宮崎顔になり、そうなればもちろんヒロインなりのヒロイックなカメラワークが似合い、以降名実共にヒロインとなる。

そんなわけで、ソフィーを軸とした「ハウルの動く城」は、

  • vs 少女革命ウテナ
    • なんかこの魂感はウテナっぽいなーというイメージが漠然とあって、しばらく悩んでいたのだが、中里一氏の感想(http://kaoriha.org/nikki/archives/000132.html)でもそのようなことが書いてあったので、ちょっと安心した。
  • vs 千年女優
    • 単に「少女←→老婆」ものという意味での表層的な類似からだったが、おそらくその心はかなり違ったものだ。どう違うかについてはまだあまり考えていない。今敏氏がハウルについてどんな感想を持っているのか興味がある。
  • vs イノセンス
    • 押井氏作品の往年の格というものは、先人達が躊躇なく押し通るところで立ち止まって考えるところにその特徴があったろうと推測できる。その構図を、イノセンスハウルは 2004 年現在で再現しているかもしれないし、またはそれが変容しているかもしれない。宮崎氏作品は躊躇しないからかっこよく美しい、押井氏作品は躊躇するのでかっこよくも美しくもないが、だがそれがいいみたいな。あとはどっちが好きかという好みの問題。おれは「イノセンスは見ないで楽しんだほうがおもしろかろう」の判断により、見ていないが、ハウルを踏まえて見てみるのもいいかと思った。
    • 構図でいうと、押井氏作品でハウルに最も近いのは劇場版パトレイバー 2 かも。ソフィー=南雲隊長だ。まったく違うが、よく似ている。

というような文脈で見ることができるかなというかんじ。