matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

最近の読書

浦和 | 070826

敵は海賊を読んでいる。「猫たちの饗宴」の中で気になる箇所があった、というか以前から気になっていたのを今回読んで思い出した。以下抜粋。

「いいや」とチーフは首を左右に振った。「弱点はどう補強しようが弱点だ。補強してもどこかに歪みが出るものだ。補強、修正という手段は海賊には通用せん。弱点は、あってはならないのだ。補強などせん。新しい力を加えるだけだ。より強く。マーシャをそのように使え、ラテル」
「最初から一人前として扱えというわけですね。助けられずに海賊に殺されるかもしれない。チーフはそれでもかまわないと言っているんですよ」
「海賊をたたきつぶすことができればいいんだ。海賊課はそのようにつくられた組織だ。どんな手をつかってもかまわん。常に先手を打ち、たたきつぶせ」

なんかこのての「うちは攻めて勝つのが仕事だから守って勝つための考え方は不要です」的な組織マインドは士郎正宗氏作品とかにも通底している気がする、具体的には「攻殻機動隊」の荒巻課長あたりが言いそうな台詞、なんだけど、シロマサ作品で直接そういう言及って為されていたかなーと思って軽く調べてみた。

APPLESEED のスドオの台詞で似たようなのがあったけど、

「互いのクセを長所として活かし合え」「欠点をフォローし合うよりはよくなる筈だ」

いやこれじゃないな。こっちのニュアンスはずいぶん柔軟だ。攻殻のほうで元々そんな台詞読んだ覚えがない。おれの記憶は曖昧なのでアレだけど。まあこのての、「守る仕事のドラマ」でなく「敵の攻め手を攻める(ことで結果的に守る)仕事のドラマ」がオタに好まれるのは自然だ。「敵は海賊・猫たちの饗宴」の発行は 1988 年、士郎正宗氏は 85 年に APPLESEED でデビューして数年でその地位を確かなものにしてゆく、つまり 80 年代後半にはこのての様式は気分としてジャンルをまたいで作家のひとたちに、またはそういった流れを受けたオタの脳内に、ある程度共有されていたのではないかとかなんとか、そういう感覚がある。だからおれがこのての話を読んで解釈するとき、自動的にその(曖昧に時代と結びついた)感覚を前提とする。

ちなみにおれの脳内で「敵は海賊」シリーズの各キャラクタについて明確なビジュアルイメージはないのだが(自分で改めて考えてみて驚いたが、映像 SF 以降の世代にしては、おれはこの作品をほとんど映像として読んでいない)、中で数人後付ででも「このキャラはこんなかんじなんじゃないかな」と思ったキャラクタが何人かは居て、たとえば匋冥は「カウボーイビバップ」のビシャスっぽい顔なんじゃないかなーとかだが、ちょっとおもしろいかなと思ったのがチーフ・バスターに漠然と「ドミニオン」の署長っぽいビジュアルイメージを漠然と当てはめていたこと。チーフ・バスターは全然ドミニオンの署長のようなキャラクタではなく、それこそ荒巻とかのほうが近いのだろうが(「敵は海賊」シリーズはいわばメタ・スペースオペラで(これがおもしろいというのは、今でいえばラノベ世代にとってハルヒがおもしろいというのと同じ理屈だ)、メタの部分はともかくとしてその基本構造は必然的に単純だから、そのキャラクタであるバスターは荒巻ほど複雑ではないのだが)、なぜだか不思議とチーフの顔は署長ってことになってるんだよな。「「わはは」とか言いそうなキャラ」ってあたりで印象が固定されてんだろうか。