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攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX

笑い男

ざっと感想というか、第一印象をメモ。長くなりそうなものについてはいずれ。

  • 士郎氏原作漫画・神山氏 SAC・押井氏映画、と捉えると中間的という位置づけになってしまうが、士郎氏原作と神山氏 SAC の対で考えたいところだ。士郎正宗氏が長らくイメージしてきた刑事ものの連続 TV ドラマをきちんとアニメでやってるという点で原作のアニメ化がはじめてうまくいってる例とも捉えられる。欲を言えば 45 分とか一時間もののほうがそれらしかったのかもしれない。
  • おれの性格からいうと「こういうのが一番好きなタイトルなんだけど、愛することはできない」という扱いになるか。つまり「攻殻でどれかひとつ選んでそれ以外を捨てる」というシチュエーションでおれは士郎正宗氏漫画を選んでその他を捨てる。作品群をながめるときにいちいちそんなことをあらあじめ考えてしまうのはおれの因業みたいなものだけど、オタライフ自体と不可分に習慣化していることなので改めようがない。
  • SAC はなんといっても荒巻が良い。映画版は主役が少なく、漫画版はキャラクタとして描かれるものの主役というような意味合いをあまり必要としているように見えず、そういう意味で SAC は主役の最も多い攻殻といえると思う。別の言い方をすれば SAC は群像としての九課を描いている関係で、荒巻にも必然的に描写が増えてくるというだけの話になるわけだが、主要キャラクタ順にソートすると「草薙≒バトー≒トグサ>荒巻>>イシカワ≒サイトウ>>パズ≒ボーマ」の順くらいで重要度が高く、準または副クラスの主役と言ってもいいだろう。過去や人間性が九課のメンバー中最も掘り下げられているキャラクタでもある。SAC の荒巻は、漫画版のようなサル科人類のボスでも映画版のような枯れた賢老でもない(まあ漫画版は荒巻に限らず誰でもサル科人類っぽく描かれているわけだが)。誰より熱い男とわかる。熱い男の熱さがそのように描かれなければ感じ取れないのは表現されることに慣らされたオタ的な感受性欠落ともいうべきだが、物語上の人物についていえば表現されるもの以下の界面はないものと同様だから、SAC の荒巻を最も熱いと感じるのは順当の範囲内と思っておく。
  • 荒巻って戦闘妖精雪風でいうとクーリィ准将なんだけど、対比させると微妙に違っておもしろいなと思った。どちらも自分の思いどおりに動く組織というよりは、画策しなくとも思ったように動いていく組織を目標としている。防御とか考えてもいいことない、攻撃だけがやりたい。 ただクーリィが「戦闘」というところを荒巻は「攻性」という。だから特殊戦は最終的に FAF を必要としなくなるが、公安九課はあくまで母体(国)がなければ成立しない、大雑把にはクーリィの女性性・荒巻の男性性とかで説明できるのかもしれない(FAF は自己完結できるが、公安九課の正義は彼ら自身によっては規定されない)。stand alone雪風にせよ SAC にせよテーマに近いところから拾える用語だろうけど、そこに対するアプローチが組織レベル(視点下のドラマ規模)で微妙に違い、それはリーダーの性質差でもあると思う。
    • 深井零が雪風と共棲することで得る強さと、草薙が人形使いと融合することで得る強さもまた違うが、人形使いは SAC には登場しないので場を変えてやったほうがよさそうな妄想かこれは。
  • 草薙の登場第一声は「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら、耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら…」だ。これ、第一話だけ見たときはただ「草薙のキャラの立ち方を一撃で表現してるいい台詞だな」と思っていたが、通して見ると笑い男のスタンスに対応していたんだなあ。
    • この言葉が指し示しているものへの各人各様の対応についても考えたが、これは長くなりそうなのでまたの機会。とりあえず草薙の場合でいえば、言葉の順番から言っても OP ムービーが示唆している過去(夢)からいっても「自分を変えた」のだろう。
  • フチコマはかわいい。フチコマに感情は、あると言えるのだろう。悲しみは表現されないが、それは彼らに死がないことからと理解できる(彼らの悲しみが表現されていても、それは死を前提としたものではないので感じとりづらく、わからない)。魂がなく感情は表現できる存在としてのフチコマに切なさは投射できるが、そのせつなさは視聴者のものであってフチコマのものではない。受け皿として異形なのにかわいくも見えるというあたりに恐ろしさのようなものも感じられる。もちろんフチコマに対する恐怖ではない。人類の作る無邪気なもの、つまりは子供とかに覚える恐怖と近いと言えるかもしれないが、それではまだ浅い。でもまあものごころのつかない子供、というあたりから、モノ心→機械に芽生えるゴースト、みたいな言葉遊びとかはできそう。
    • フチコマじゃなかったタチコマだった。名称の変更は商売上の理由らしいのでおれが区別する必要はないな。じゃあフチコマで。
    • バトーだいすき天然オイル。バトーが愛されて草薙は愛されないというあたり、上司の報われなさよなと思わなくもないが、この感想は筋違いだな。あとSAC の草薙はフチコマをマネジメントするよりリスク判断で切ることに決めたりとか、原作漫画よりちょっと尖ったナイフ感の高い存在なのかもしれないと思った。どういうシチュエーションだったか忘れたけど、漫画の荒巻の台詞で「潰さずにコントロールするのです」みたいなのがあったけど、ああいった中間管理能がフチコマに対して描かれてないなあというか。その結果、草薙は後悔する
  • 会社ドラマとしての公安九課は理想集団すぎてちょっと見づらい(←公安九課エリート集団すぎ)。第 20 話で草薙がトグサが面接するシーンなど、部下に能力もモチベーションも「ある」という前提で話ができるのだなあ SUGEE、というよーな納得の仕方をしてしまう。つまり「やる気があって」「仕事のできる」部下しか公安九課には居らず、それらがどう組み合わされば最も効果的に働いてくれるかを考えていけばよい。荒巻の実現した攻性の組織としての公安九課の骨頂のひとつだろう。往年のモーレツ社員のひとなどからどやされる種類の薄弱な感じ方かもしれないが、働く意義の多様化も二十一世紀日本の副産物のひとつなのだから会社ドラマはどこかでそこと向き合っていく必要がある気がするわけですよと言いたくもなる。ただまあ、そういった問題をのっけてみたとしても、答えらしい答えは特に出ないんだよないまのところたぶん。
  • 特殊職能集団・公安九課の面々を一般人から評価した場合、最も偉いのはトグサの甲斐性。ああいう仕事やりつつ家庭を維持してるってのはすごい(ほかのメンバーの私生活はほとんど描かれていないわけだから、案外ボーマとかパズも結婚してるかもしれないけど)。もちろん奥さんも超偉い。とかいってるとまた往年おやじ FX のひととかから肩越しにどやされるわけだが、まあ言ってろよおやじども。おまえらの時代がよかったというなら、そのようでない現在にそれはもはや終わっている。
  • 厚生労働省こえー。「厚生省の荒事屋が怖い」つながりでジオブリーダーズを思い出した。
  • 第 11 話「亜成虫の森で」で、施設→ギムナジウム→伝統的少女漫画と連想回路の開く単調なおれ。もちろん実際の描かれ方はそのようではない。どちらかというと 90 年代の情報化デジタルキッズ(!)調という理解。でも萩尾望都氏の絵柄で見るとかなりおもしろい印象になるエピソードではないかなと思ってしまう。蝶のモチーフとかを追加してだな。
  • 第 17 話「未完成ラブロマンスの真相」はワインの話だけど、サブタイトルにある「ANGELS' SHARE」(天使の分け前、天使の取り分)てブランデーの用語じゃなかったっけか(http://www.asahibeer.co.jp/liquorworld/bar/know/index5.html)、と思って調べてみたが、ワインでも言うんだな(http://www.kanko-miyazaki.jp/unit/kura_50/)、べつにそのへん酒の種類は関係ないらしい。
  • 「劇場型のキチガイが画面狭しと踊り暴れる話」という点で、笑い男のサイコ度は中盤までで最高潮となり、終盤は収束していく。このあたりは「Serial Experiments Lain」(http://www.geneon-ent.co.jp/rondorobe/anime/a-lain-n/)のシリーズ通してのサイコ度曲線等と同様といえると思う。クリーチャーなり犯罪なり、明らかになってしまえば、脅威ではありつつも恐怖ではなくなる。それゆえにおれは Lain のことが中盤まで好きで終盤はあまり好きではないんだけど(わけのわからなさよ永遠に!)、でもまあ攻殻 SAC の笑い男事件のサイコ度的収束は、あれでいいよなと思えた。なぜなら SAC の主人公は公安九課であり、究極的に九課にとって見るに値する現象は犯罪者それのみであるはずで、だから九課はきっかけが笑い男としても紆余曲折あって自分の見るべき犯罪を自分の捉えるべき世界観上で捕捉し、そのフォーカスが「曖昧な笑い男事件という全体像」から外れることになっても一向に構わなかった、というふうに腑に落ちたからだ。公安九課は具体的だ。
  • 当初全然違うのかと思っていたが、笑い男は、原作漫画で人形使いの演じた役割とかなり重なるような立ち位置の存在として振舞ったかなあと思った。それでもやはり全然違うといえば違う。印象話でいうと、人形使い草薙とケコンしちゃうくらいの格だったが笑い男はまだまだボウヤであって、恋愛になりようがなかった。大きくなったらまたおいでってなもんである(形式でいうと「笑い男が草薙を選ばなかった」と言ったほうがいいんだろうけど)。その点、アナザーケースとしてフリクリにおけるハルコとナオ太の関係とかを連想しなくもない。もちろん笑い男はナオ太ほど強がらず、草薙はハルコほど絶対的な人間ではなかった。うーん、なんとも言い方がむつかしいなこれは。というか一歩でも間違うと(そして大半のドラマでは十歩くらい間違って)恋愛に発展する二人の関係は、草薙と笑い男についていえばまったくといっていいほど発生しない。草薙が第一話冒頭であの台詞についてすでに決着をつけ終わっていることを表明していることからも、最初からあまりに無関係すぎるんだこの二人は。無理筋というか。結局あれか、おれはなるべく笑い男に恋して終わってほしかったのか?恋に恋した程度の失恋感であればありえたかもしれないがっていうか、あと何回か見直して再考してみないことにはなんとも。
    • 人形使いは草薙と絡むが、笑い男に絡むのは草薙でなくトグサであることも大きい。それゆえに SAC のトグサは原作より格が上がって、主人公格のひとりになっているように思える。だがトグサは笑い男と相対しない。笑い男の影は大きく、トグサは笑い男を追ったため、影の外に出るところまでいけなかった観がある。まともに相対するのは草薙と、あとは荒巻くらいか。
  • 公安九課の面々は軒並みかっこいい。この「かっこいい」の基本は、悩まないことと説明できる。シチュエーションに対する自分のあり方をあらかじめ決めている。だから敵を認識すれば即座に反応できる。訓練によるものもあろうし、経験によるものもあるだろう。それでも感情が溢れることもありはして、特にバトーなどがそうだが、しかし感情は感情であり行動が左右されることはほとんどない(この種の問題でのシリーズ中一番の失態は荒巻の生き別れの兄の件に対する反応だろう、スキャンダル捏造は公人に対する攻撃だが、荒巻は私人として真偽を確認しようとしてしまった)。九課のメンバー中最も「かっこよくない」トグサにしても、職業人として覚悟の一線を超えたところにある。ともあれ、そのように、攻殻機動隊は抑揚が効いている。それでいながら融通が利かないという意味にならない。パーツの剛性を維持したまま、全体には柔軟に変化しうる構造体として公安九課及びそのメンバーは描かれる(原作漫画のほうが完成度の高い人格と描かれるため、SAC は柔性の表現においても漫画に劣るかも)。柔性が高ければ青春モノ、剛性が高ければ職人モノになるところ、ほとんど職人側で敷き詰めておきながらギリギリ青春を残しているかんじというか。そのあたりが独特だ。未熟→成熟というような、ただの人格的成長ではない。士郎正宗氏作品全般にいえるのかもしれないが、攻殻機動隊における成長とは、自己の人格単位を確保し終わっている人間の、状況を踏まえた変化・変容のようなものだ。だから青春モノという表現は適当でない。未来の余地を残しながら貪欲に生きているイメージ。
    • 笑い男は、人形使いほどには草薙の変容に影響しなかったように思えて(つまり SAC は草薙の変化の幅が最も小さい攻殻ってことに?)、シリーズ判断上でちょっと引っ掛かっている理由の最大のひとつがそれ。人形使いとケコンした草薙は漫画の二巻またはイノセンスにおける彼女のような存在になるしかなく、それでは 2nd GIG がやれないからってのもあるのかもしれないけど。ただし、与えた影響の質が違うことによる影響差かもしれず、とかなんとか、笑い男の男っぷりについてはもうすこし見てから考えたい。

これ以上細かい話になると収拾つかないので適当に切り上げ。作品解説は下記サイトに詳しい。