AURA 魔竜院光牙最後の闘い
読んだ。おもしろかった!本読んでひさびさに興奮した。感動とかとはすこし違う。なんか青春があった。こういうのにおれは弱い。
ところでこの「AURA 魔竜院光牙最後の闘い」というタイトルを正確に書くのが面倒だったので「AURA」で検索してコピペした。AURA は一般的な名詞なので、Google 検索の一ページ目には出なかったが、二ページ目先等に Amazon のページが出た。おれの Firefox は Greasemonkey で Autopagerize を効かせているので、二ページ目に移る際クリックする必要はなかった。Autopagerize は「Google 一ページ目をそれ以外の格差」問題を緩和したりするのかなーと思ったりもした。ともあれ、たぶんこの本の感想をネットに書こうとするひとは大概が、タイトルを検索してコピペするんじゃないかと思う。画数割の個性は最小限といってよく、ジェネレータで作ったかのように見事な出来だ。
どうにかしてネタバレを避けたくなるタイプの話なので感想を書きづらい。とりあえず当たり障りなさそうなあたりをリスト式で。
- メタライトノベルである。というより、メタなのが当たり前な時代のベタなのかもしれない。
- リアリティは低くないが、決してリアルではない。お話だ。作中のキャラクタはハッピーだったりアンハッピーだったりするが、作品のこちら側にいる誰の何に対して役に立つというようなものではなく、したがって、心持ちにだけ関係する。青春小説だと思う。それは間違いない。
- たぶん直截的に挙げられるのは谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」だと思うんだけど、それよりも連想したのは新城十馬「蓬莱学園の初恋!」だった。あれが 91 年だから、おれの中ではじつに 17 年ぶりの「このての小説」ということになる。読んでよかったと思った。もちろん、「初恋!」とは全然違う。「初恋!」はメタライトノベルではない。AURA は、メタ前提の時代に置き換えたときにこのような形がある、という見え方のように思えた。
- というような絡みもあって、「おれが興奮しつつ読めるラノベ作品の作者って新城十馬氏(と冲方丁氏)くらいかもなー」という漠然とした認識に、本作をもって田中ロミオ氏を加えてよいのかもなーと思ったりした。
- いはゆる「邪気眼」が主要な題材のひとつになっているが、用語「邪気眼」は避けてある。
- いはゆる「スクールカースト」が題材のひとつになっているが、用語「スクールカースト」は避けてある。
- でも用語「学校裏サイト」は作中で使われていた。邪気眼とかスクールカーストとかと違って、ネット限定語じゃないからか。
- シーンのつながりというか、切り替えが ADV っぽい。読んでる最中はそうでもないけど、通過したあとは「あーこういうイベント群を消化してーってかんじなのかな」という印象になった。A4 一枚のプロットで全体像がわかるようなデザインだったのかなとか妄想。
- 途中読んでてかなり不快になる人間関係描写があった。勢いで読まないと、きついひとにはきついのかも。でも最後まで一気に読むとサワヤカーな気分になる。
だめだ。こっからネタバレ感想。
- 読み終わって一通り余韻に浸ったあとでも解消されなかった引っかかりがあって。本作のヒロインて邪気眼に見えてじつはそうじゃないよね?だから、これは元・イタい少年と、現・イタい少女の、ボーイ・ミーツ・ガールもの、ではないよね多分。というのは、べつに凡庸な邪気眼とは違う「本物の」邪気眼、というような意味合いではなくて、彼女は(最初は)本当に幻想世界の住人だったんじゃないだろうか?ということだ。
- スルッと読めたけどページ数自体は結構あったし、一気に読んだからクライマックスの勢いに引きずられてかなり「邪気眼としての彼女」に印象が上書きされるわけなんだけど、でもそもそも主人公とヒロインの出会いのシーンでの「白いモヤのようなもの」だけは説明できないよね。
- だからこれは多分元・邪気眼の少年と、現・幻想世界住人の少女の、ボーイ・ミーツ・ガールもの、という意味では結構ベタベタな話だよな。ただそこで普通と違うのが、少女側の現実が、徐々に少年側の現実に寄り添っていくことによって、ギャップが解消されていくということだ。普通なら少年少女それぞれの拠って立つ世界自体が揺らぐようなことはなく、両方認めつつどちらを選ぶかみたいなオチになるところだけど、本作の場合少年が選び、少女を説得した現実だけが選択され、幻想世界は「現実」ではなくなる。
- なんというかエピソードを積み重ねてヒロインは、「最初は人間じゃなかったキャラクタが、主人公の世界観に染まっていくことによって、だんだん人間になっていった」というふうに読めるのだ。ヒロインの内面はヒント程度にしか描かれない話なのでもともと少ないし、親はどうなってるかとか何で大金持ってんだとか、彼女を現実に接続している設定は最後まで不明瞭のままだ。なんでそうなのかというと、ストーリー序盤にはその設定が彼女に無かったからじゃないのか?と妄想すると腑に落ちるんだよな。彼女はもともと幻想世界の住人だから「あちら側」の設定は豊富なんだけど、現実世界側の彼女の憑り代(としての肉体)にはほとんど付随する設定がなく、彼女が主人公の現実に適応していく過程で、だんだん「人間としての彼女」側の設定が「あったことになっていった」だけなんじゃないか?という。
- そしてその過程で、彼女にとっての本当の世界の設定は、「現実世界の彼女の邪気眼設定」に矮小化されていったんじゃないか。中盤あたりまでの、幻想住人ではないときの彼女の肉声ってむずかしい言葉なんか全然なくて、というかほとんど幼児のようであり、幻想住人の精神に現実住人のための肉体、みたいな対比でいうと、肉体側の彼女はこの時点でまだひらがなしか喋れない程度の知能しか無かったんじゃねーかとか邪推してみたりとか。
- だからクライマックスにおける対峙は複雑な絡まりがあって、現実世界での自意識をもった彼女に対しては「死ぬな」という説得で、幻想世界での自意識である彼女に対しては「ここで生きよう」という説得になっている。邪気眼に対してそれは「帰還することを選択しないための設定」の追加だし、現実(主人公の物語)への適応に挫折しようとしている元幻想住人に対しては「現実に固着するための物語」の強化だ、という妄想。
- 「認識と選択によって、世界(現実)が「そうだったということになっていく」という世界の話」なんじゃないかなーという妄想。
…とかなんとか、スルッと読んで感動する以外の部分にも、勘繰り甲斐のある話なので、この本についてはどっかでよさげなひとが読書会とかやってくれねえかなと思ってんだけど、ないかー。ラノベとかエロゲーとか SF とか人文とか詳しい界隈のひとが、なにをどう読んでどういう次元の話を転がすのか見学してみたくなる本だった。