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プロフィールの項目「嫌いな〇〇」はアリかナシか

むかし、インターネットがブログでも web サイトでもなく、ホームページだった頃…。たとえば「私のホームページへようこそ」「自己紹介」「猫の写真です」「自作の詩です」「ゲストブックです」「リンクの冒険」「画廊伝説」等々の文字列が踊っていた時代。を、踏まえた、そのひとつあとくらいから、管理人プロフィールのページに「table で組んだ自作 PC のスペック表がある」「「好きな〇〇」項に対応する「嫌いな〇〇」がある」らへんはオタサイトのありがち要素として認識されていたようなかんじだ。PC スペックは「プロフィールに載ってる情報として、あっても困らんけど他人からすると読む価値があんまりない、人物を推し量るためのヒントとして有効でない、管理人自身が「その表をメンテする行為」のやり甲斐だけで置いてあるもの」という部分から、垢抜けないかんじがした。「嫌いな〇〇」はー、主張としての是非は場合によるけど自己紹介に含めるのはどーよというかんじで。…という前提を踏まえて、じゃあ今でも「プロフィールで「嫌いな〇〇」項」は痛いのか、と考えたときに、案外そうでもないなーと思ったのでメモ。

  • 昔の「嫌いな〇〇」は単なる痛いプロフィールアイコンだったけど、近年のネットは、ほんとに「〇〇が嫌い」という話題でつながろうという勢力が結構居るかんじなので(←「ネガティブでつながる自由」問題とかなんとか)、アリになりつつあるんじゃねーか。当時と今とでネットの感覚には差があるはずで。昔の、届くかどうかわからん見知らぬ誰か(誰も居ないかもしれない空間)へ向けての発信に「おれは〇〇が嫌いだ」とか含める意味と、今の、どこを見てもいろんな雑踏があって声を発すればそこに届く、という状況で「おれは〇〇が嫌いだ」と呟いてみる行為の意味は、かなり違うんじゃないか。
  • あと、友達づくりの指針として(あまり言われないことかもだけど)「好きなものはバラバラでいいんだけど、嫌いなものは一致していたほうがなにかと都合がいい」ってのは、今も昔も変わらんよなーと思っている。まあそれを先回りしてプロフィールで表明する態度はどうなんだ、という話ではあるけど。
  • プロフィールに「嫌いな〇〇」とか書いちゃうひとを見ると「漏れてんなー」と思うわけだけど、同時に若いうちからソツのない人間は信用できんなーというオタ経験則もあって、だから「多少アレなくらいのほうが、友達としては付き合いやすいし楽しい」てのもあるよなーというか。
  • あと、若いひとの場合の「◯◯が嫌い」てのは、「◯◯が許せない」というセンス・正義感・義侠心とかの言い換えだと思うので、そこを一概に切り捨てるのはよくない。他者として見る場合、若者の感性は時代の切り株のひとつだし、友人として言うなら、たぶんそういう気持ちの大きさが、ゆくゆくの仕事の大きさを決めたりする部分もある気がしている。まあ大概はバツタマ(←「しゅごキャラ!」語)になって捨てられるんだけど。黒歴史化というのか。このへんアレだな「邪気眼とか中二病とかが現象として名前を得て外部化した結果、客観視に耐えられずパージ・切断・拒否などの反応の過剰化を促したが、そういうストーリーをパターン化してコミュニティ側が整備してしまったことが、一度突き離した己の青春の半身と再び出会って再融合するというイベントを阻害してしまっている(ので、むしろ今こそ我らは中二病邪気眼を赦し、癒され、救われるべきなのだ)」という昨年あたりからじわじわ来ているブーム(AURA とか)とも重なっていく話だな。