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どうぶつの森 plus

池袋東口 | 020810

メモする話題と、書く日記があんまり連動してないのであれなんだけど。批判的な意図はないことをあらかじめ書いておかないと自分自身あとで読んだとき誤読しかねない。ちょっとこれはいまはまとまらない。

特筆すべきはファンの盛り上がりで、お目当ての声優さんがステージへ上がるたびに「まいちゃーん! まい、まい、まいーっ!!」などの歓声が上がっていた。しかし、歓声はいつしか奇声へ。最初はそれぞれの愛称を叫んでいたファンたちも、「ほっちゃーん! ほ、ほーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!!」や「ひろみさーん! ひろみひろみひろみ! アーッ!! ああーっ!!」と本能の趣くままに声を上げ始める。かと思えばライブで、声優さんたちのステージアクションに合わせて一糸乱れぬ振りを展開。押しと引きを上手に使い分ける、イベント慣れしたファンたちの姿が印象的だった。

おちつけ。いやおちつくな。いやしかし。かといって。とはいっても。うーむ。

そもそも、なぜこの記事がオタ的におもしろい記事になっているのかといえば、この記事を描いたひとのメディアとしての立ち位置の微妙さが興味深いからだ。奇声部分を冷静にメモするおもしろおかしさと、そもそも奇声部分まで記事にすることは判断として冷静なのかという問題。なにをもって公正性とし、なにをもって報道とするかというあたりのポリシーのゆらぎの見え隠れがたいへん興味深い。ネット上のメディアはある程度偏向に自覚的であるほうが、逆に客観的であるといえる場合もあるのかもしれないなあとか。まあそれはそれとして、

  • 結局のところかれらはかつて居たような「静粛なキモオタ」とは種を異にしているわけだよなーと思えば、ちょっとさびしい気持ちにもなる。アイドルオタとかを長年見てるひととかからすればむしろ伝統的な、理解しやすい現象なのかもしれないけども、まあそれはおれのフィールドではないし。
  • 逆にかつて居たような静粛なキモオタたちは、場さえ与えられればこのようにもなっていたのかと思えば、あれはあれでおれにとって都合のいい解釈を許す余地のある幸福な時代だったのだなあとも思える。
  • いずれにせよ、こうした獣のような熱情を(安全に)発散しうるひとたちに支えられた市場は、おれに都合のいいような居心地を提供することがない。それはとても残念なことだが、もともと関係ないといえばないものにそうした感傷をかんじるのは、アンテナ伸ばしすぎたかという自戒につながる。いやそうではない。関係はある。
  • 認める以外に選択肢のない状況のことを現実という。2004 年の現在においては、ゲーマーズという名のショップで売られているものはゲームであり、TGS で発表されるこういったものはゲーオタに向けられたものである。おれはゲーオタだから、ということはおれの食卓にもこうした皿は並ぶ。

おれにとって残念なことは、同じ星を見ることがなくともきっと外向きの車座で円状に拡散してゆくのであろうと思っていたひとたちが、それぞれの方面でやっぱりどうにも現実(具体的には肉の欲求など)に抗うことをやめて、かつての熱情をいい思い出に変換していってしまっているのではないかという懸念を抱かざるをえない現在と、そしてそれがおそらく正しいことだ(むしろあたりまえの話だ)。ときどき、または、いつもちょっとしたことでそれを感じている。おれ自身そこから逃れることはできない。せめて秒速 7.9km は維持したいと願いながらも、やはり人間は有限であるという前提には逆らうつもりがない。上記のようなケースの場合、層の違いや世代の交代もあるとおもうのでこの意識を直接には刺激しないのだが、秋葉原のソフト風俗化とかはおれにとってモロにそうした問題だ。記号に発情できていたデジタルの時代は去り、かつてのデジタルの申し子たちの殻は剥げ落ち、投射する実体を求めてアナログな感性を顕にしているではないか。これはおれのオタ的な、他罰的な潔癖さのあらわれだ(←「かつて次元の壁を突破したと強弁しうるほどであったおまえらにあってさえ、壁の修復に余念のない現在であるか、あれだけの熱情はしかし所詮代償でしかなかったのか」という寂しさ)。または下衆な観測者根性と言い換えてもいい。直接に誰かに問いただしたことはない。それは失礼な事態になるし、そうしたところで解決しないと思う。もっと漠然と時間をかけて、勝手におれの肉体が納得していくだろう。十年来やむことのない一連の青春病の、最後の発作なのかもしれない。このようにしか書くことができないというのは、いまだおれの自意識は自身のオタ的瓦解を許すほど脆くなっていないということで、やはり自意識は、自意識自体によって自由な立場でものを考え記述することを不可能にするのだなあと思った。

だから、かつての鍵っ子のひとたちが、いま「永遠」についてどういった感想を持っているのかについて、ずっと興味を持っている。