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似たもの同士が「おれたちってかっこいいよね」と言い合う文化圏関連

お台場海浜公園 | 061216

似たもの同士が「おれたちってかっこいいよね」とか言い合う文化圏を部外者として見ると傍目に無残だなと思うわけだが、しかし文化圏とはそもそも似たもの同士の寄り合いだから、「おれたちってかっこいいよね」が響きあう空間自体は珍しいものでもなんでもないはずだ。けどまあ傍目に無残とまで思ってしまうような状況はそれなりにレアだから、やはりそこにはなんらかの機会希少性があるのかなと思わなくもない。自分が帰属している文化圏の場合あまり違和感を生じづらく、そして自分が帰属していない文化圏に触れる機会があまりないということだろうか。いやちがうか。文化圏内で「おれたちってかっこいいよね」とか必ず言ってるわけではないからか。かっこよさを確認しあわないと死んでしまう文化圏限定だからか。

  • 似たもの同士では基準が偏っていて当然だから、発言「かっこいいよね」は、そのひとたちが実際にかっこいいかどうかと関係がない。それが実際にかっこいいかどうかを判定する際には「そのひとたちと似ていないひとたちから見て、それがかっこよく見えるかどうか」を基準にしたほうがよかろう。
  • あと用語「かっこいい」は、基本的に「これが理解できるおれカッコイイ」の裏打ちだ(≒でしかない)から、どの程度の偏差を織り込んだらいいかの見極めがむずかしい。どこまでいってもセンス闘争でしかないかもしれない。
    • 基本的には「認めたいかっこよさ」「認めざるをえないかっこよさ」を区別すると判定しやすいかなという気はする。つまり「手っ取り早くかっこよさを認定して(ただ乗りして)優越感を得たいという安易さ」と「劣等感から否定したいのだがそれができないことによる苦々しさ」みたいなものを区別して、それぞれの質量をパターン化してみるという。
  • なにかがブームになるというのを、部外者、つまり似ていないひとからかっこいいと言われるようになることと捉えると、ブームが終わるというのは、似ていないひとからの視線がなくなっていくということだといえる。
  • 現在ブームになっている現象の中心にいるひとたちが「おれたちってかっこいいよね」と言い合う状況は、それなりに「サマになっている」といえる。似ていないひとからも「あれがかっこいいんだな」と補強されているから。で、そういう補強がいつのまにか薄くなっていき、なくなって、見回して似たもの同士すらも希薄になってしまうというのが、ブームが終わってジャンルとしても死につつあるということかなと思える。
  • ようするに「おれたちってかっこいいよね」を必要とする文化圏のうち、ブームを終えたものに残留しているひとたちが「おれたちってかっこいいよね」を言い合っているというのが、やはりこれはどうにも無残ということになるか。べつにそんな無理にがんばってかっこよくなくていいのになあという。
    • さらに、ブームが過ぎる前、つまり「彼らのかっこよさ」が、彼らと似ていないひとたちからも保証されていた時代に、(つまり実際に)かっこよかったひとたちが現在までそれを繰り返しているという話ならまだよくて、全盛期にすら「べつにかっこよくはなかった側の当事者」だったひとなどが、祭りの跡に「おれたちってかっこいいよね」と言い合っている…というような図になると、なんといいようもない。

このへんの、さらにこぼれた話か。

「昔はよかった」を翻訳すると「昔は(おれにとって都合が)よかった」であり、読んでいて切ない。

これだな。

「過去にいいことなんか全然なかったとしても昔は良かったとか思うことはできる」

「昔はよかった」は、基本的には過去にあった都合のよさを現在失ったひとの繰り言だが、しかし「昔も今もろくでもないひと」もまた同様に、現在のろくでもなさを批判するために、同様にろくでもなかったはずの過去を美化して引き合いに出すことがある。これは、やりきれない。

「おれたちってかっこいいよね」話については、まだほかに掘るところがありそうなので、後日べつの角度から考え直してみたい。