matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

夕凪の街 桜の国

書いてなかった感想を、もうちょっと詳しく書いてみるべく努力してみたが、やはりうまいこと感想にならなかった。

おれの家系には原爆で死んだひとが多少居るが、ヘヴィに被爆したような家族の大半は間をあけず一家全員死んだりしていて、それから数十年後に生まれたおれは、そのように枝ごと折れた家系の記憶を親族と共有する機会を持たなかった。全員が被爆で死んだわけではなかったかもしれない。混乱期のゴタゴタで、子や孫に伝えたくない別れ方をしたのかもしれない。いずれにせよおれは彼らがいまは居ないということしか知らない。

それはそれとして爆心地から遠いほうに住んでた親戚たちはほとんどが無事だったようで、そのうちおれが生まれるまで生きてたひとには会うことができたし、街でも被爆者手帳持ってるじいちゃんばあちゃんを幼い頃にはけっこう見かけた。だが、そういうひとたちもおれが物心つく頃次々死んだ。天寿をまっとうしたといってもいい歳だったろう。だからおれは自分の親戚のうち、明らかに核攻撃によって殺されたひとがどういうひとだったのかを知らない。知る方法もいまとなっては途絶えたと思うが、特に知りたいと思ったこともないので、それで構わなかった。知りたいと思わない感覚について、漠然とした不安のようなものを覚えたことはあるが、おれは結局そこに漬かって生きる道を選ばなかったので、いまとなっては過ぎた話でしかない。

血の絶えた家族のことをわざわざ語り継ぐひとたちなど居ないというのは経験上の事実だ。まあ家族の中に生き延びているひとが居れば、親戚が集まったときなどに、故人の話になることもあるだろう。遺影にあるあのひとはこういうひとで、こんなことをやっていたが、いまはもう居ない。その息子や娘、父や母はこんなかんじ。そういう話。だいたい三代くらいまでなら故人の記憶は伝わり、残るものだと思う。だが同時期に家族ごと居なくなった親戚のことはあまり語られない。原爆で死んだほうの親戚の話はまったく聞かない。縁故が絶えるからだ。父や母が存命のうちはまだ話にもなるが、受け継ぐ子がないので途絶えてしまう。あまり親戚仲がよくなかったのかもしれない。でもそういうことじゃなしに、語るほどのことが特にないということでもあるよなと思う。どのみち平凡な人生だろう。死んでしまえば「誰から生まれていつごろ死んだ」くらいしか伝えることがないかもしれない。

原爆で死んだひとたちのことが、原爆で死んだことについてしか取り上げられることがないのは、なんとなく寂しいことなんだけど、べつに語り継ぐほどのことでもないわけだよなふつうのひとのふつうの人生なんて。それこそ盆正月にひいばあちゃんとかから口伝をいただくくらいのものというか。

…というような感覚がおれにはあるので、被爆したひとのあまり語られない部分が丁寧に描かれてあるこの漫画は非常に感慨深いものだった。そしてまたその後の世代についても、同様に曖昧な感覚が丁寧に描かれてあるかんじがして。説明がむずかしい。この漫画があることによってなにかが説明されたとか救われたとかそういう話ではないのだが。なんとなく指摘するほどのことでもない曖昧なものが、漠然とそこにあるよね、という感覚が無視されていない漫画だなあ、というような読後感が有難かった気もする。