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自アン民 OFF 会

OFF 会

自アン民である B 氏が上京しているというので、じゃあ迎撃 OFF 会でもやろうじゃないかというかんじになった。おもしろかった。

  • 適当にお昼くらいから池袋に集まりましょう、みたいな大雑把段取りで進めていたこともあって、昼の時点で誰も来ず。揃ったのは 15 時過ぎくらいだっけ。さすがだ。
  • 漠然と東口はそろそろいいかなという気分だったので、西口で遊ぶことにしたが、西口ってよくわからんので東武デパートの屋上でダラダラした。風はさわやかだけど日光も強く、屋上談話スペースに日陰が無かったので、日陰に椅子を引っ張っていって座談。ビール食ったりアイス飲んだり。安上がりに。
  • ヱヴァンゲリヲンの話とかもした。旧アスカの物語要素が新作ではマキ波とシキ波に株分けされてて、それでシキ波はバッドエンドルートを回避できそうなかんじ、なのと同じ理屈で、旧レイの物語要素は実のところアヤ波とモグ波に株分けされており、それでアヤ波はバッドエンドルートを回避しているのではないか説。このままでは浮かび上がるシキ波とアヤ波の陰でマキ波とモグ波は沈んでいくわけだが、たぶんそうならない仕掛けが次回以降に展開していくのではないか…。
  • モグ波というのはエヴァンゲリオン同人語のひとつで、綾波がひたすらエロいことをすることを追求していった結果、なんかもう元の綾波レイとはあまり関係ないっていうか全然別のモノになってしまった…みたいな結果的な変形創作芸を象徴するオタ愛称だ。おれがその用語を知ったのは自アンだが(ほかにも「マキタ音」とかエロが絡むネーミングはほんとおもしろい)、現物を見たことはないんだよね、だから実際どんなものかは知らなかったんだが、「別に使徒とかネルフとか出てこない」「モグ波はエヴァンゲリオンとか乗らない」「とにかく体育倉庫とかでオッサン相手にエロいことをするのが仕事」みたいなかんじらしい。砂先生における変形創作語「広末」みたいなかんじだろうかな…。
  • 最近著名人が死にすぎて、なんだかもうよくわからないことになった、という話をした。いや、自分とあまり関係のない人間の生死についてのリアリティのなさが、メディア展開との相乗効果で、どんどんボンヤリしてきており、たぶんこのまま曖昧さの中に沈んでいくんだけど、それでいいのかどうか判断できずに不安だ、ということについての話だった。というのは、先日ドリフターズをフィーチャーしたパチンコの CM で、2004 年に亡くなったいかりや長介氏の合成映像があって、なんかすごくへんな気分になったのだ。いや、べつにそれを見てなにか不適当だとか罰当たりだとか言いたくなったわけではない。ただ、不安になった。
  • これが若い頃のオードリー・ヘップバーン氏の映像を使った CM とかなら、まだよかった。でも、つい五年前まで生きてたひとの場合はなー。ちょっとばかりメディアに疎いひととか、あるいは海外に数年行って戻ってきました、みたいなひとの場合、いかりや氏が亡くなってること自体知らない可能性もあるわけじゃん。氏はもう居ない、でも著名人だから映像ソースはたくさん残っているし、権利関係をクリアすれば再利用もされる。その CM は合成とわかるような絵ではあったから、まだ「あ、そうだよね」という感覚でギリギリ現在とつながっていたけども、いずれ技術が進歩して何が合成で何が合成ではないのか区別できなくなれば(というより、合成物のみで映像が作られるようになって以降は)、著名人が生きてても死んででも、多分そういうのあまり関係なく消費できてしまうだろう…という心理を見越してその CM は、わざと合成だとわかるように作ってあるんじゃないかと疑ったりもした。自然すぎれば怖ろしさを感じるという判断が為されていても不思議じゃない。
  • こうした状況はすでにはじまっていたし(N さんは 2002 年発売の CAPCOM鬼武者 2」に松田優作氏が起用されたとき似たようなことを思ったそうだし、あと筒井康隆氏がこのへんの問題について発言したことがあるらしい)、これからどんどん増えていくだろうし、でも重要ではなかったから、あんま気にしなかったけど、さすがにいかりや長介氏くらいになるとおれにでも違和感が生じたな。なんかこう、「著作権はそのひとの死後も 50 年間有効です」「著作物を引用するときは、引用の要件をきちんと充たしましょう」みたいな決まりと同様に、「死後数年以内に亡くなった有名人を起用する場合、ちゃんとそのひとが故人であることを明示した形で、生きているひとと同列には扱わないようにしましょう」みたいな決まりを作ってもらわんと、そのひとが死んだのだという社会的な認知みたいなものの浸透というか、共同幻想を保てなくなって、リアルとバーチャルがあんまりよくない形で融合してしまうんじゃないだろうか。とか考えると、やっぱ寺とかでやってる n 回忌とかって重要だし意味があるなーと思ったりした、親戚一同とかで「あーこいつ死んだ、死んだよねー。そしておれら生きてる、生きてるねー」と、節目ごとに確認するっていう。死んだ人間と生きてる人間がごっちゃになってしまうと、死んだ人間の死だけでなく、生きてる人間の生まで曖昧になってくる。著名人は著名人なだけに、もともと我々にとって生きてるのか死んでるのかが重要ではなく、曖昧だ。

とかなんとか、いろいろ喋ったけど大概忘れた。夜頃までたむろして、カレー食って、散会。