ジャンル衰亡とどう向き合うか関連
まあ「お前たちは行け!おれはこのジャンルと生死を共にする!」と息巻くのもいいが、実際にはジャンル滅亡を超えて生き延びてしまう身体を持ってしまう我々は、つまるところ永遠から爪弾かれた不浄の民であろうがよ、というあたりから、どうにも滅ぶんだったら滅んでええやん、というふうにジャンル生死観を転ばせていかんことには、オタク 20 代後半から先はキツくなると思う。それはつまり、閉塞し衰えていくジャンル動向を基本的に肯定するという意味にもなるが、そのどれかひとつをわざわざ選んで添い遂げるのでなく、ドツボをいくつもハシゴすることでトータル安定に調整することだってできるのだ。…そのうえでも、まあたしかに SF や STG は息苦しいかんじがしないとはいえないけども。
- 勉強してオタクになる場合、濃密に先人の足跡を辿りがちになる時期があって、まあ高校から先の数年〜十年くらいなんだけども、そこで陥りがちなのが「こんなにすごいものが、おれが好きになったときには斜陽になっていて残念」という体験の連続からくる感傷なんだよね。
- でもそれ先人の足跡ばかり辿ってたら必然的に「いま起きている現象」より「かつて起きた現象」にばかり注目してるっていう、観測範囲問題から立ち上がってきてるだけのことなんだよね。まあかつて馬鹿でもいまはそれなりに洗練されてきてる先人たちに囲まれると、同年代が馬鹿に見えたりするから、「あっちは盛り上がってるのかもしれないけど、見るべきものがない」みたいなかんじになっちゃうんだけど。
- …そこいらへんでのありがちなハマりについての雑感は以前書いた(→ http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20081218#p1)。
- で、社会人とかになってシーンを拓く腕力やシーンを支える財力を得るようになったら、いよいよオタクイメージファイト 6 面に突入する、というのが 20 代で。そこから先に進んだとき、感傷ゲームの手癖が残ってると、オタライフの舵取りがイマイチ鈍くなるんじゃないかっていう。そういう型があったほうが粘れることもあるだろうけど、多少パサついてものびのびやったほうが、トータルでは長寿ってことになれんか。
- どうにも滅んでいくものの、最後の一人で居続けることは、ロマンでもなんでもない日常の繰り返しのはずだ。
「おれ以外に誰もやらないんだったら、それはもうおれしかやらないんだよ、おれ以外にやるひといっぱい居たら、それはハッピーだね」みたいなかんじで、状況を分析するのはいいとして、そこにいちいち評価を与えないほうがコツコツやれるかんじがする。旗振りの恍惚感とか鉄砲玉のリアルとかよりも、いち消費単位としての自己と向き合っていくほうが、ラクして実感を獲得し続けられると思うし、どこかで実感の供給を受けなければ、オタクは続けられないだろう。