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下妻物語

下妻物語」という映画がおもしろいと聞いたのでみてきた。おもしろかった。ふしぎだ。

なんで不思議かといえば、おれと「下妻物語」の間には明らかになんの関係もないからで、ようするに、この映画を見に行くための動機付けがなかった。そんで見たらおもしろい映画だったので「ああこれおもしろいな」と思ったのだが、しかしそれでもやっぱりこの映画のおもしろさはおれと何の関係もないのだった。映画館出るときの感覚がふしぎ。

動機はなくとも理由はある。なんでおれがこの映画を見に行くということをしたかといえば、ひとに勧められたからだが、そんときおれは「クワー!キャラものの残り汁にはどんなものがありうるかをいっしょうけんめい絞ったり考えたりしてる現状において、わりあい妥当な解として多方面からある程度の支持を受けているのは群像もの、しかしただ群像なだけでは地平線まで続くフラットな空間で観念をも背負って戦う「北斗の拳」の時代となにも変わらんので、そんなもので納得できた幸せな時代は過ぎ去って久しいので、彼らに用意されるべき舞台はそれなりのディテールを伴いつつ、最新でも最古でもない近代化と安定と停滞が拮抗するロケーションとして顕れるべき、というような文脈のうえに TV ドラマのジャンルを当てはめてみればあのーなんか「池袋ウェストゲートパーク」とか「木更津キャッツアイ」とか、おれそのへん見たことないのでなんともわからんのだけども、ともかくそういった流れ上のなにかと思われる、田舎+複数形若者の危なげないヤバい話ですカ?ていうか映画でいえば諸条件はありつつその流れにものっかって村上龍「69」とかがまたぞろ墓場から復活しようとしているという噂を聞いた」みたいな、オタのすごくアレな部分ちっくな受け取り方をしたんだけども、とはいっても、ああいうものは見ればだいたいおもしろいに決まってるんだろうとも思っていたので、行くぶんには抵抗なかった。下妻物語という作品の前提というか、予備知識を持っていなかったこともプラスに働いたろう。知らなくて興味がないものがおもしろいというのは非常にきもちいいことなので好きだ。おれは下妻物語を見終わった今でもべつに下妻物語について深く知りたいとか全然思えない。

思い浮かぶままメモ。

  • サッポロビール黒ラベルの一連のスローモーション CM のひとの監督作らしい。なるほど納得。
  • 原作があるらしいけど読んでないし読む予定もなし。
  • 空と雲の色彩に印象を出そうと苦労してるかんじが見受けられた、が、ちょっといじりすぎててかんじが出てないんじゃないかなと感じた。ひらぺったいというか。それを狙ったのかもしれないけど。
  • レディースが出てきてファッションの話もあるのに、なんで MIKIHOUSE が出ないのか。
  • ジャスコはよく協力したなあと感心。がんばれジャスコ
  • 主人公のロリータファッションと現実の戦いはギャグの領域を超えない。
    • せいぜい牛のうんこ踏むくらいで、それ以上のリアルさは追求しない。このへんやりだすと一人の戦いに寄り過ぎて話が二人の間を転がしづらいからってのもあるだろう。
    • けっこう暑そうな季節の話なのに、あれだけヒラヒラふりふりな服装の主人公がぜんぜん汗をかいてないのが印象的だった。木造家屋で、温度や湿度もけっこうたいへんなんじゃないかと思うんだけどそのへんもなし。空色の調整といい、ここいらへんはすっぱり割り切って人工的に仕上げるのがこれ系の定番なのだろうか?
  • ファイトクラブ」との類似性。
    • 物語構造(アクシデント状況→長い回想→クライマックスへ)
    • ものの値段演出
      • ファイトクラブでは(冒頭の)主人公は「システム側」だったので、あの様式は主人公宅にある通信販売の高価な家具に適用されたが、下妻物語ではジャスコで安価に服を買っている下妻の住人たちのほうが「システム側」で、似たような様式で紹介されるものの立場はまったく逆なのが興味深い。
      • 「高額な買い物」にフォーカスして様式を揃えるなら、下妻物語においても「主人公の部屋のロリータファッションアイテム群」に適用可能だったはずだが、それは選択しなかった点
        • あのへんの値段をはっきり表示しちゃうと、ふつうの視聴者が主人公に感情移入…とはいかないまでも、共感する余地がなくなるから?(←「ちょっとへんなひと」では済まなくなると思う)
        • 心の珍奇さの印象が必要で、物質金銭面の生々しさは不要ってところか。
        • というか金額でハマるかどうかを選ぶような趣味ではないところだしなあのへんのおしゃれ感というものはという部分(金の問題じゃないから、ひとは値札のついてないような店で買い物をするようになるわけで)。
        • 高い商品をオサレに紹介するよりは、安い商品をバシーンと紹介したほうが絵的におもしろいからではという指摘(まあそりゃそうだ←二番を煎じるなら二番なりの煎じ方をしないとうまくないはずだから)。
        • とかなんとかいろいろ合理的にそのようになってる。
    • 探せばほかにもいろいろありそう。でも重要なのは、ファイトクラブは一人相撲だったが下妻物語は二人の話なところ。
  • あと、この映画のアニメパート制作の絡みで今夏のアニメ映画「MIND GAME」と制作スタッフが一部かぶってるらしい(あっちの実写部分を手伝うかわりにこっちのアニメ部分手伝ってよみたいなバーター?)?
  • 天上天下唯我独尊は男の発想か」問題
    • ようするにあの決定的な遅刻報告電話のシーンだ。主人公が主体性を放棄しているのはあのシーンだけ。あのシーンの意外性が流れ上にもたらす意義はなにかとか考えだすと泥沼にはまる。設計されたおもしろさなのか、単にセッションとしてああしたほうがおもしろいからああしたのか。
      • 自己完結している主人公が、そのうえで「(自分以外の)個人を崇拝している自分」を脳内で両立させているのは、男オタの世界では成立しえない状況なのではないか。完結した自己が信仰対象の外在を許すなど危険すぎる。こうした心境に至る理論武装は、客観的には悪しき自己目的化とでもいうべきものだが、それなくして成立しうる「強い自己」というのは、なんか美しすぎて信用ならない。このポイントこそが「少女のおそるべきピュアー」ってやつなのカー?
      • 女においては、べつの教祖を仰いでいても、独立していないとはいえないのかもしれない。「それはそういうものとして」という現実認識というか、柔軟性に富んでいるのだろう。それは矛盾だと思うが、そういう矛盾を作るのは、矛盾を感じる精神なのだから(←矛盾はそのありさまに過ぎず、問題ではないことから)、矛盾を産んでしまう脳よりは、無矛盾に暮らしていける脳のほうが、それは優等種に決まっている(←仮にそうなるとすればしかし、この話とは関係ないけど、「不思議ちゃんと宗教さんの区別は明確なはず」という前提が揺らぐなあ…)。
      • ただそれは、彼女がまだ子供だからなのかもしれない。「対抗策をあらかじめ準備しておく必要のある危険可能性リスト」に「クラスのいじめっ子」と「侵略宇宙人」が同列で並んでるような年代なら、例内処理よりは例外処理のほうが多いはずだから。下妻物語は単に子供たちの勘違いのドラマなのかもしれなくて、その可能性を持ったまま話がはじまって進んで終わるのがおもしろさの根っこかなと思った。
    • いや、そういうことではない。あすこで彼女が主体性を放棄したのは、あの場面は彼女にとってはじめての「(自分以外の)誰かのために決断しかけている自分を客観するシーン」だったからではないのか。自分のためにしか決断したことのなかった人間が、ひとのためになにかを決めるというのは重大事で、というかやったことないのでわけわかんないし、怖いし、自分が自分でないようでっていうか、まさにこれまでの自分とさよならせないかんのかもしれない場面なので、自分と自分の過渡期で、ちょうど中心がなかった時間帯というか、そういう状態を自覚しながらもよくわからずに電話して、そして、相手側からすればそれは「はっきりと新しい側の彼女」として認識されるはずだから、背中を押したということではないか。

なんかちょっともやもやしている。