おたんちんパレオロガス
子供の頃、TV でエリート風の男(ゲストキャラ)がボンクラ主人公を指して「オタンチンパレオロガス」とこきおろす場面を見たことがある。いかにも真面目そうな大のおとなが場にそぐわないオタンチンパレオロガスなんて言葉を吐いたもんだから妙におかしくて、ほかはすべて忘れてしまったがそのことだけ覚えていた。
あれはなんのドラマだったんだろうか。「噂の刑事 トミーとマツ」(http://village.infoweb.ne.jp/~fwkb5100/tomimatsu/)だったろうか。ちがったかも。ともあれ今日めし食ってたら突然そのことを思い出してちょっと笑った。おたんちんパレオロガスじゃねえよな、ははは。
で、検索。「だから、あなたは、オタンチン・パレオロゴス」(http://members.tripod.co.jp/alphons_sur/otantine.htm)というページを見つけた。夏目漱石「我輩は猫である」におけるオタンチンパレオロガスの誕生シーンが解説されている。パレオロゴスに古着行商という意味があったというのは初耳だった。東ローマ最後の王朝の名が古着屋の意ってのはしかし、なんとなく、うなずける話だ。
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脱線。「東ローマ最後の王朝の名が古着屋の意ってのはしかし、なんとなく、うなずける話だ。」←こういった脳内連想に不用意にうなずいてしまっているありさまっていうのは危ない。これはまだ随分とマシな例だが、もっと普段の生活や日々触れている、現実に密着した状況にもこういった仕組みは働いている。これは脳内知識世界の隙間を補完し成長させ完結させることで対世界自己を螺旋状に再確認することのできるシステムだけど、反面で脳内世界と現実世界のズレを産み、端的に言って偏見を助長するシステムでもあるからだ。
しかしそれとわかって楽しんでいるぶんにはさしあたり問題ない。長期的には問題になる。毎日それを気付くことなくコツコツと自分で作った偏見の檻にはまっていった人間は、ある日周囲の現実からとんでもなく遠い世界に居る自分に気付いて絶望的なさびしさを味わうことになる。なければ生きながらえることはできない、偏見というのは自己そのものだからだ、しかしそのことによってひとは老いて死ぬ、やがて偏見に捕まって動けなくなる。酸素のようなものだ。
やりすぎには注意しなければならない。自分の偏見度が世間からどの程度かけはなれているか、確認する方法を模索しつつ日々疑う心を忘れなければいいはずだ。それ以上のことはできないだろう。
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脱線戻し。関連して「ファンタジー/中世ヨーロッパ民俗文化情報マガジン」(http://woodruff.press.ne.jp/illusion/odiria/)というメールマガジンをみつけた。
一方、東ローマ帝国は流動性のある社会構造のため、頻繁にありました。農夫だったユスティニアヌスは様々な意味で有名、最後の皇朝となったパレオロゴス一族は古着屋だったと言われています。
この ML おもしろそうなので暇なときにでもバックナバーを流し読みしてみよう。トピックは http://woodruff.press.ne.jp/illusion/materia/materia_faq.html にも取りまとめてあるみたい。