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魔法遣いに大切なこと

なんかもうタイトルとしての「魔法遣いに大切なこと」には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。ていうのもなんか本末転倒してるかんじだけど、今出てくる正直な気持ちは案外そのあたりかもしれない。そしておれは現在の心理状態を作ったおれ内ご都合主義装置の動作を検証し、警戒すべきだ。

魔法遣いに大切なこと」は極端な例だったがこれに似たもどかしさを以前感じた作品がある、「サトラレ」だ。おれはあれが一話読み切りの漫画だったなら傑作になりえたと思っていて、巻を重ねていくごとにどんどん辛く感じるようになっていった。設定に無理があったからだ。物語上で共存している現実と非現実の要素を突き詰めていけば破綻する。サトラレは超天才で勘がいい、しかし周囲の努力によってサトラレ自身は自分がサトラレであることを知らない、そんな状況作りえるか、いや無理だ。

自分がサトラレであるかそうでないかを疑う時期はあるだろう、思考実験だけで「まさかそんな」と済ませられるほど鈍重な脳みそでもあるまい、確証を得ようとするはずだ、そうなれば検証するのは簡単、演技によってごまかせる領域以外の部分で検証すればいい、具体的には生理的な、たとえばものすごく下世話な話になるが男同士で一方がサトラレであった場合、もう一方の両肩をおさえつけてじっと相手の目をにらみ、考えつくかぎりのものすごくいやらしい妄想をふくらませたとしたらどうなる、そりゃ相手のちんこが勃っちゃうだろ、たったそれだけで十分に自分がサトラレである可能性を真剣に疑わねばならないということがわかる。要するにおれは「サトラレに自分がサトラレであることを気付かせないようにする仕組み」のリアリティを信じることに失敗した。これはこのおはなしのかなり根幹の部分にある物語現実だったので、ここを信じることに失敗するとドラマの中のほとんどの現実は陰を失う。

読み切りならいい、多少無理無茶があっても構わない、短くスパっとへんだけどあったらおもしろそうな話を作るんですよっていう部分で多少の不整合は吸収できる。だがそうしたお約束魔法の効果時間は短い。話が長くなればなるほど味も素っ気もない引っ掛かりがあたまの中で大きくなっていく。物語時間が現実時間の長さに近くなるからだ。現実の支配力は徐々に増し、非現実が存在しうるためには理屈の支えが必要となる。おれにとってサトラレは、がんばって引っ張っても単行本二巻分弱くらいまでの許容範囲しか持てない設定のお話だったと思う。三巻までくるとどうしようもなくそういうことばかり考えてしまってなかなか素直に楽しむことができなかった。残念だったとしかいいようがない。あとのほうになってもプロット自体は結構おもしろいものだったからだ。毎エピソードごとにちゃんと世界ならではのアイディアが出ていて、無理に伸ばしてるかんじがしなかった。

ということはすくなくともサトラレ程度まで仕組みのおもしろさを毎回作っているお話だったら、おれは「あー」とか「うー」とか「えー」とかうなりながらも結局ちゃんと読むことまではするわけだ。「魔法遣いに大切なこと」はそれより出来のよくない世界設定のうえに組み上げられたお話と思えるので、そうであればやはりつらい。よほど仕組みのおもしろさで盛り上げないとつらい。

おれは設定が曖昧なものの存在をなかなか信じることができない種類のオタなので、そこいらへんで単純な楽しみ方がなかなかできなくて困るんだけど、べつに物語を消費するだけならおれにだってできないわけじゃないっていうか、その行動は自動的なのでわざわざ意識することもない。むずかしいのは読者として「物語を消費しない」ことなんだけど、これは設定がきっちりしてないとまだ無理だ。おれもオタである以上目や耳や手に触れるあらゆるものを消費してしまうこの肉体を呪うわけだし、コンシューマとして作品を陵辱する現場にはなるべく居合わせたくないし、なにをどうやったって消費されない見事な作品のある場にいずれは立ち会いたいという希望(っていうか宗教的理想みたいなものか)を捨ててはいないが、だからといってメディアを捨てて隠遁するのはもっといやなのだ。

手に触れるものすべてを純金に変えてしまう呪いを受けたじいさんは、最初喜び次に悲しみ最期は自分自身をその手に触れることで自分の幕を下ろしたわけだが、オタがオタを消費したところで自分自身を消し去ることすらできやしないだろう。せいぜい萌えキャラ化するくらいが関の山だ。なんだどこを切り取っても全然いい話にできないじゃないかおれは。