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真剣インターネットしゃべり場 2006 関連 その 4

今回の OFF 会では、たいへん伝統的な雰囲気の(展開例のひとつを体現している)若オタのひとを見ることができ、「ああ、まだこういう若いひとも居るんだ」と思ってある意味安心した、と同時にオタという受け皿の因業について若干考えさせられた。おれがかつて体感・研究し尽くした素体が、固有の身体的特徴と 2006 なりの問題意識を備えた人間として目の前に現れたようなかんじ。振る舞いが伝統的ということは、脆弱性も伝統的ということで、ある意味で「喋っていてとてもラク」というか、こういう状況を楽しく過ごすにはどうすればよいかがあらかじめわかっているので、ルーチンワークで処理してしまったような部分もかなりある。つまり、隣り合わせの自負と鬱屈を抱えたこの種の若オタというのは、基本的に自分の中に膨大な量の「設定」を抱えているものであるから、そういうひとと相対したおっさんオタとしては、特になにもせずただ話のきっかけを振り続ければ、相手は自分の抱える「設定」を延々語り続ける状態になり(ガチガチに武装を固めたオタには、それこそ一晩や二晩では語りきれないくらいの分量の内部(自己)設定が存在するものだ)、こちらとしては枝葉は軽く受けつつ流しつつ、相手の設定話のバグトラッキングに徹していればそれだけで十分に間がもつ。

この筋合いでの「設定」というのは、ようするに個人の体験であり、また主観的事実から導き出された価値観や世界観の経緯であり、これまでにあった様々の局面に求められた判断例集のことだ。それ自体はべつにオタに限らずほとんどあらゆるひとが特に意識せず持ち、大雑把に参照しながら日々生活しているものだといえる。が、なぜそれをわざわざ「設定」とまでいうのかといえば、この種のオタはその自分内処理を自覚してしまっており(または意識下でそれを行おうと努めており)、同時にそこになるべく広汎な整合域を作り出したいと考えているからなのだ、が、うまく説明できない。オタにある(中二的な)感覚として「なにかを物語的に理解(または創出)しようと試行した際、そこでキャラクタの設定ばかりが膨れ上がりがち」というようなアレを自分に適用しようとした際に、自分の物語を見出すための取っ掛かりとして、まずは自分がどういう設定のキャラクタであったのかということからはじめがちであるからかもしれない。