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やりきれなくてもやるしかない

おれは「世の中に居てもいなくてもいい人間はいる」と思っているんだけど、同時におれが思う「居なくてもいい人間」は実際にはそのほとんど、または全員が、居たほうがいい人間なのだろう、とも理解しているつもりだ、が、そのうえで「居なくてもいい人間」と認識している人々は居る。つまり、本当は居たほうがいい人間なんだろうなー、と思っている人間に対して、居なくてもいい人間だなー、と感じながら生きている。そんなおれだが「居るべき人間以外は死ぬべき」みたいな熱意は全然ないので安心安全なのだった。ご立派な社会のなかで生活している自覚がない。べつに生まれなくたって構わなかったんだけど生まれてきちゃったんだから仕方ないよねという、居なくてもいいのに生きている人間の集合体が、現代社会といったものだ、みたいな気持ちで暮らしている。おれの思う居なくてもいい人々は、おれの思う居てもよい人々でもある。まとめると「本当は全員居てもいなくてよい→居るのならば全員いたほうがよい」で、「全員居たほうがよいが、意識が薄くなると部分的に「本当は全員居てもいなくてもよい」が露呈する」というかんじだ。おれの思う居なければならない人間というのが、つまりはおれにとっての特別であった、ということだ。まわりくどいな。

ともあれ、おれが居なければならないと思っている人間も、ふつうに居なくなるわけだし、彼らが居なくなっても世界は続いていくのだった。居なくなったときに、世界が変わったと感じる。彼らが居る世界から居なくなった世界へとズレた気分になる。彼らが生きていた現在、彼らが生きていたはずの未来へと毎秒辿り着いていく。十年後には、彼らが生きていた場合の十年後の現在と並走していることになる。そっちの世界へ移りたいとは、じつはあんまり思えていない。取り戻せると感じられないし、信じられないからだ。おれの思う居なければならなかったはずの人々が全員生きていた現在、十年後、二十年後、三十年後は、おれにとってとんでもなく豊かだっただろうかと考えるが、案外そうでもないかもしれない、おれにとって居なければならないと感じられない側の重要さのほうを、理解できていないからこそ、むしろ信じている。とはいえ、ともかく、わかりはしない。

時間はおれを待ってくれない。なにが正しいのか、どれがマシなのか、全然わからないのに、やっていくしかない。おれがそうなのだから、世の中に多く居るはずのおれのような人々も皆そうなんだろうと思う。自分がわかっていないことを確信しながら、わかっていないのだから正しい判断ができるはずがないと思いながら、それでもなにかを選んでいる。たぶん元々世界が自分にとってどうあるべきだったのか一度もわからないまま。