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腐女子界隈インターネット探索 3

引き続いて(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20090909#p1)。腐女子界隈の実話系文体、まあ合宿所関連とか縁切り話とかが全部本当だったと仮定した場合、友達ゼロになった腐女子が全国あまねく結構な数にのぼってんじゃないかとも思えてくるわけなんだが、たぶんそういう話でもない。というのには、二つの筋合いが想像される。

  • 人間関係の経営は、絶対的でないばかりか曖昧そのもの。周囲に根回しして絶縁という場合にも、範囲は有限だし複数の輪のなかに情報が伝播していく過程で変質や減衰はつきもの。それと時間の経過によりすべてのものは曖昧に優しくなったり劣化したりする。
    • ようするに…、どんな人間関係にも「その外側」は存在するし(報告は内側だけを描くもので、それ以外の領域が存在することを自明として読まなければ刺激値が高い)、外側は、解消された内側の事情にいつまでも左右されたりしない。おまけに同人活動となれば、そこでの関係はほとんどが(生命活動のインフラとしてみれば)セカンダリ以下ということなので、破局に伴う痛みは確かでも、即座に社会生活が破綻するという種類のものではないし、まあとりあえず傷ついたひとはプライマリの人間関係に拠ってダメージを修復すればいいという話に。
  • これらの報告は「リアルさ」を追求する行為だけど、事実それ自体ではないという点で、正しく「実話に基づく」というお題目が冒頭に表示される、(西欧のヒューマン礼賛系)映画や(日本のこの一瞬の愛はエターナル系)ケータイ小説などと似た素地のうえにある表現だろう。根本的に目的とか色々違うので同列には並ばんけど。いまいちスッキリ書けない気がするので雑然とリストすると、
    • 実話系文体としてこなれすぎた報告をみると職人の存在を疑いたくなる。というより、このての書き込みを読み続けていると「ただ投げ出されているリアリティ」と「技術の産物としてのリアリティ」の差って何だろうみたいなほうに脳が引きずられる。
    • いかにもありそうなパターンの変奏が延々続くこと。その一方で、「いかにもありそうな人間」は確かに日本中に居るのであろうこと。話題が提出され、共有され、蓄積されていくこと自体が行動規範として働いていくような部分もあること。また、慣れてくると微妙な違いを斟酌せず「いかにもありそうなもの」として情報を捌いてしまっていること。
    • 揉め事報告は通常陰惨になりがちなはずだが(実際あまり気分のよくない報告のほうが多いんだが)、なぜだか読み物としてのカタルシス分の濃い報告が目に止まる。そこに職人としての手業とか、あるいは爽快感への欲望みたいなものを感じる。あまり呑み込みたくないリアリティを、まるめこみつつ記述することによって消化しようとする心理。
    • 書式のテンプレート化(多少細かい事情が異なっていても、)によって投稿の敷居は下がっていく、というコミュニティの事情。テンプレ化で報告しやすくなり、敷居が下がればテンプレ報告が増える。テンプレが確立すると、そこに含まれない空気感や例外的な事情を、記述者みずからが省くような心理が生じたりもする(似ていない状況が、報告時点で同じような筋書きに編集される)。
    • というか個別事例の特定を避ける意味でも、紹介する際には土地や固有名詞や具体的な状況に関して「フェイク」を入れるのが一般的だから、ほぼすべての報告が前提として虚偽を含んでいる。
    • おそらくはその「フェイク」の編集に、読みもの性みたいなものを追求する余地があったりもする。そこが要点とは思わないが。

…みたいな、漠然としたモヤモヤが押し寄せてくるかんじ。