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「自作のキャラクタイラストを描くという行為」関連

ところでオタ語「絵師」は、結構前からある言葉な気がするし、おれとしてはそこにちょっと古臭い(口ごもったような)発声側の心情を想定してしまうんだけど、実際にはこんにちでも結構な範囲で、しかもあまり屈託なく使われてるので、「え、きみらみたいな今風っぽいオタの用語選びの感覚として「絵を描くのが得意なかんじのひと」を指す言葉として「絵師」は十分なの?」という違和感を覚えたりする、が、おれに違和感があろうがなかろうが、それが現実というものなので問題とかはない…みたいなことを漠然と考えて、そこから連想で、昨年田中ロミオ「AURA 魔竜院光牙最後の闘い」を読んだとき、その背景となる「中高生が邪鬼眼的な世界構築を発明するために必要な基礎技術を習得するのに至る、メディア側の下準備」みたいな部分について妄想しようとして、めんどくさくなってやめていたことを思い出した。ので、そこいらへんのモヤモヤを、一部分・グダグダながらメモしておく。

  • 「絵師」に絡めると、「既存作品のキャラクタではない、自作のキャラクタイラストを描くという行為」は、オタク史のなかでもわりとマイナーなカテゴリで、そして「TRPG のキャラクターレコードシート」は、その行為へ分け入る最初のきっかけとして、当時多くのオタの背中を押したのではないか?…という疑問を思いついて、その裏付けを取ろうとしたのだけど、ちょっと調べてみたら、TRPG ブームの到来よりファンロードの「マイキャラクターズ」というオリキャラ見せあいっこコーナーのほうが先立つんだよねー、ということが分かってしまっていきなり頓挫。
    • D&D の邦訳版の発売をスタートとすれば、TRPG がブームになるのは 1985 年以降だが、ファンロードは 1980.07.15 創刊。創刊時からマイキャラコーナーがあったかどうかは不明…というか多分、91 年刊行の「ファンロード マイキャラ・セレクション 1982 〜 1989年」のタイトルから、マイキャラコーナーは 82 年からと推測されるが、いずれにしても 85 年よりは古い。
    • …いや、それでいうと D&D のオリジナルは 74 年発売だから、日本語版発売以前から一部マニアの間では愛好されていた可能性も低くはないわけなんだが(でないとわざわざ日本語版売ろうぜみたいな話にはならんだろうし)、でも今回は「一部の」でなく「広く一般の」オタが自作キャラの絵を描くきっかけになったのか、みたいな話だから、前史的な話は間口としては広くなさげよな。
  • そもそも、なんで「TRPGオリキャラを要請したのではないのか?」と思ったのかというと。87 年に刊行された黒田幸弘D&D がよくわかる本」のリプレイにおいて、キャラクタメイキングの例として登場するのはペンドラゴンやダースベーダーレゴラスなど、有名作品のキャラクタから名前を借りてくるという描写だったのが、88 年ドラゴンマガジン誌上でのソードワールドリプレイ集第 1 弾になると、完全オリジナルのキャラクタ名を「なんとなく」名付けるシーンに変わっていく、というあたりの肌感覚があるため。ごく初期には、キャラクタイメージは「借りてくるもの」だったが、それが「無根拠に自分で作ってよいもの」というふうに、段階的に意識転換させていったのではないか。
  • TRPG というゲーム普及のため、リプレイ形式でプレイヤ啓蒙を行う意味で「真面目な」脳みそをやわらかくして、自由にやっていいんですよーと伝えるまでには時間がかかったんじゃないか、ということと、あとはまあそうしたガイド自体を商品として売っていくため、そうそうよそから版権キャライメージ引っ張ってくるわけにもいかんでしょ的な事情の二つが、オリキャラでいこうぜ路線への変化を後押ししたんではないかなーとか邪推。
  • …で、そういう妄想は「でもファンロードのマイキャラクターズて、その前からあったんじゃ?」でズンゴロゲーンとなったわけよ。一応 TRPG が(アナログ)ゲーオタ界隈、ファンロードが漫画オタ界隈からの流れってことでいいんかな。まあ当時は趣味層もそれほど細分化されてないんで、プレイヤは相当ダブってんだろうけど(というより、ゲーム好きとか漫画好きとかファンタジー好きとかいろんなひとたちが架橋してきて TRPG という場を持ち合うことで、そこに漠然と「創作好き」という儚い趣味にとってなんとなく居心地のよい空間を作っていたような気もするね、そういう空気感から、想像力の羽を伸ばしていったオタは少なくないんじゃないか)。
    • ともあれ、「Perfume ブレイクのきっかけは何だったのか」話みたいなかんじで、よくわかんなくなっちゃってまあ。
  • 本当は↑みたいな単純な話に落ちるものでもなくて、そもそも D&Dソードワールドはカテゴリが違うって話がある。どういうことかっていうと、D&D て高価いんだよね。たしかベーシックキットで 8,000 円くらいした。箱入りで、マスタースクリーンがかっこよく、ダンジョンではフィギュアとか使ったりする、ボードゲームとかを扱うホビーショップの物件。そもそも田舎だとホビーショップが無かったりして、入手も困難。日本語化されても、まだ結構敷居が高い趣味。対してソードワールド RPG は、文庫本形式の TRPG ルールなので、安い。書店流通で出回るので入手も容易。サイコロも六面ダイスしか使わないから、最悪鉛筆で代用もできた。もとから国産ルールだから解説も懇切丁寧、おまけに若オタ向けの月刊総合誌にサポートコーナーも連載、手厚さが違う。というわけで、D&D て大学生以上のプレイヤが居るクラスタでしかなかなかひろまらなかったんじゃないかと思うんだけど、文庫形式の TRPG ルールは高校生以下でも簡単にはじめられるって部分で、おなじ TRPG でもだいぶ温度が違うんだよね。
    • すくなくとも、グループ SNE には「TRPG おもろいわなあ、ワシらが TRPG というジャンルを普及させたろやないか、そのためには敷居と対象年齢を下げまくってカジュアル化したるんや、子供の小遣いでも一式揃う価格帯で勝負して中高生ハメ殺したるんや」みたいな戦略があったはずだ。…というあたりで、「86 年から 87 年にかけてのユーザへの視線の変化」という筋でなく、「大人ユーザに対する視線とこどもユーザに対する視線の使い分け」みたいな筋も、たぶんあるんじゃねーかっていう。
  • あと「自作キャラの絵を描く生活習慣」からは脱線して、邪鬼眼に必要な世界設定能力の下準備のため「なにが設定厨を準備したか」みたいな話にいくと、設定厨界隈最上の肥料になったのは PBM じゃねーかなーという気もしている。遊演体社による 88 年の「ネットゲーム '88」が最初ってことになるか、そして 90 年の「蓬莱学園の冒険!!」。
    • より正確には、クラス「設定厨」は設定能力と考証能力の二つのスキルで構成され、考証能力に裏打ちされた設定能力だけが、立派な設定厨としての成果を残してきたという経緯がある(立派な成果の例としては…アニオタの場合の「Gun Sight」とかか)。邪鬼眼であれば、多少のアンバランスは問題としないだろうけども。…という意味では、PBM は「彼らの挑むべき理想郷かもしれない」という話で、「彼らはそこから来た」という話では、ないか。数的にも世代的にも、たぶん合わんし。

とかなんとか。