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腐女子トークを傍聴 その 2

引き続いて(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20090517#p2)。

  • 90 年代 CLAMP について大変(愛憎両面において)思いいれのあるひとが居たのだけど詳しい話が聞けなかったのは残念。
    • でもメンバー中おれ以外全員東京近郊育ちだったので、「じゃあメディア上にだけ存在する幻としての「真の東京タワー」を脳で体感できてんのは多分おれだけだなハハハ」と思った。
    • NaNa とか読んでないのでわからんけど、00 年代ではさすがに東京タワーのプレゼンスとか理解できねーよなあ。幻想があるとすれば渋谷とか代官山とかランドマークのショボそうな地帯で。
    • 「東京は魔方陣で囲われてなきゃならねえんだよ」「CLAMP X」「サイレントメビウス」ていうか帝都物語か?
      • そこいらのめんどい文脈パロディとしての、池袋フォースタワー(←単なる焼却場の煙突なんだが六角形でポリゴンくさくてかっこいいのでそう呼んでる)を軌道エレベータに見立てた(←どう見ても劇場版サイレントメビウスのパロディの)新海誠「塔のむこう」(「新現実 vol.1」掲載)は「このひとオタだなー」とニコニコしながら読めた、大雑把にいうと、人生に軽くつまづいた埼玉県の女子高生が、徒歩で東京に向うんだが池袋の煙突が見えたあたりで泣きながら引き返すみたいな話で、東京つっても池袋は文化的に「埼玉県池袋市」みたいな位置付けだから充分田舎側で、そんな手前で引き返してどうすんだ的なアレと、いやそこで引き返して正解だよ的なアレがせめぎ合う、そこはさながら田舎モンにだけ理解できる高速戦場、in おれの脳内、みたいなかんじだった。みたいな話もあるけど余談。
  • あずまきよひこ氏は同性愛者ではあるまいか」的な俗説関連
    • あずまきよひこ氏は同性愛者ではあるまいか」俗説とは…、あずまきよひこよつばと!」で描かれている世界が、どういう立場の人間にとって都合のいい世界であるのか、という視点から逆算して、こりゃーゲイのひとにとっての理想世界ではあるまいか、いやそうに違いない、そうに決まった、というような説。
    • "省き" の漫画家・あずまきよひこ…、設定などで明示的には排除せず、しかしそれをただ描かないことによって世界の外に追いやる手法が独特の空気感を生み、それがオタに大ヒット大爆発大勝利、「あずまんが大王」においては共学高校から男性をほとんど省き、よつばとにおいては家庭における母親(および妻は、設定として存在しない)や育児的な義務感を省いている。みたいな。ただ、それにしたってこの漫画ちょっとゲイ的に魅力的すぎるキャラクタが多すぎだろという視点からも、やっぱり同性愛者説が浮上と。
    • …といった深読みビリティの発揮しやすさに関して、おれとしては「それはどうかなー」と思っていて。「よつばと!」を読んでいると何やらまともでないオーラを感じるし、あずま氏が作品を描くにあたってなんらかのものを丁寧に省いていることも確かだとは思う。けど、そこに意図があり、それこそが真意なのだみたいな入れ込んだ読み方には賛成したくねーなと思う。ほぼ同じ読み方をしながら、しかしおれはその排除をめんどくさいものは描かないんだというふうに感じた。あるいは、描いてもあまり楽しくないとか。「意図があって排除したのだ!」てのは要するに「無視」という読み方で、無視するからには対象に対するなんらかの情念があるって意味になる。で、おれはこれを無視とかじゃなくて単なるスルーだと思ったってことだね。どうでもいいから描いてないだけっていう。ただ、そこには偏執的な取捨の操作があるってのには賛成で。「どうでもいいから描かない」を裏返すと「描かれているものは、すべてがどうでもよくないものである」という意味になる。「どうでもいいか、どうでもよくないか」という、わりと気楽なはずの判定を、ものすごーく緻密にやって、そして省いたあとに残ったものは丁寧に描きすぎていて、それがなにか怖い、みたいな。「ふつうの感覚」で改めて考え直せば足りないものがあるはずの世界が、充ち足りてみえるというその不安か。それが「なにか死後の世界のような」みたいな感覚につながってんのか。
    • あずま氏作品がオタ受けしたっていうのは、「邪魔くせーものを排除するあずま先生の世界観かっこいいっす!」みたいな積極的賛同が多かったって意味では決してないと思うんだよね。「あー要らねーものが無いから、この漫画ラクだなー」っていう消極的な共感からウケてるんじゃないだろうか。
    • とーちゃんの、育児に対する決意のなさに関する話もちょっと出た。よつばに関して「拾った」という台詞がある。そこを「育てる」と言うのが、たしかにまともらしい育て親の態度かもしれない。ただ、そこもなー。引っかかったな。といってもこれには、おれの子供時代の家庭環境とかが判定基準に絡んでそうだから、なんか自分でもよくわからない。「親でござい」「育てるんでござい」みたいな決意や覚悟のありなしと関わりなく子供は育ったり育たなかったりするよねという感覚があって。こうしたモヤモヤは、「崖の上のポニョ」公開当時の感想界隈で「母親が覚悟足りなすぎ」みたいなキャラクタ批判とかしてるひとを web 上で観測してウゲーと思った感触と似てるかも。体感としては「親があんま覚悟キメまくってると、人類そんな立派なひとばかりでもないから、ダメ親は神経衰弱して却って育児放棄とかのルートに行ったりするから、適当に育ててみたら適当にでかくなった、くらいのおおらかな見え方でも、問題出なきゃオッケーなんじゃないだろうか」らへん。
    • なんかちょっと時空ズレてるけど、あずま氏はあずま氏で自分の中の南洋幻想的なものと向き合ったりしてるんじゃね?という気も若干していて(その他の例:水木しげる氏、河森正治氏、ネオランガにおける會川昇氏などなど)。あと、全然作風とかは違うけど、案外近藤よう子氏あたりと対談すると意気投合したりするひとなのかもしれんなとか。
  • 「女は擬似家族的なお話が好き、男はそんなでもない」問題。
    • 擬似家族的なストーリーに関して、よつばと!ポーの一族宇宙家族カールビンソン→ああ女神様→など話が飛んだ。ていうかパッとおもいついた男性擬似家族もの作家が、カールビンソンのあさりよしとお氏と女神様の藤島康介氏の二人くらいで、どっちもアフタヌーン的なポジションかー、というのはなんだか。アフタヌーンと花ゆめって微妙に重なりそうで溶け合ってない的ななにかなのか。あと少年漫画における部活漫画は、女性視点でみれば学校単位が擬似家族的なロールになってるという指摘も(〇〇高校が〇〇家、みたいな対応での、家族ぐるみでのお付き合いみたいな)。
    • 少年漫画ものの部活(チーム)を擬似家族として捉えるというのは、やおい視点を前提としているよな。やおい視点がなければ、チームはチームにすぎない。なにが違うのかというと「目的の有無」で。チームというのは目的を達成するための集団で、それが達成されれば結束する意味を失う。対して家族というのは、目的なくただひたすら続いていく関係性だ。したがって、少年漫画における「チーム」を目的から一時離脱させ、二次創作において「擬似家族」に置き換える、という行為がやおいにおいては為されている、と推測することができる。もちろん、バトルが永遠に続いていくようなループ構造に陥れば、一次的にも「バトルという日常の中でひたすら続いていく関係性」という感触が生じてくるんだろうが、あんま少年漫画よんでないから詳しいことは知らん。
    • そこいらへんでおれが近年漠然と認識しているのは「男オタがやおいと似てくることによって生じた擬似家族ジャンルとしての萌え四コマ(目的なく続いていく家族的関係性)」らへんなのだが、あんまやおいのひとは萌え四コマを嗜まんようで、そこには何か、似てるようでいて全然違うジェンダー的な溝があったりするんかなと思った。

そのほか、

  • なぜか「いけないルナ先生」と「胸キュン刑事」の話。
  • やおい女子の名称関連。腐女子やおいスト、同人女、茨など。
  • 「ホモの嫌いな女の子は居ません」「ホモが嫌いな女の子は猛禽」「ホモが好きすぎると猛禽になれない」
  • ワンピース「サンジ童貞説はガチ」
  • 「童貞は女から叩かれるとき避けないけど、非童貞になった男は避けるかどうかを選ぶようになる」

など。もうちょっと続いた(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20090519#p2)。