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スタートボタンとリセットボタン

プラウザ

オタ議論におけるフレーズとして「ひとそれぞれ」「いいものはいい」は強力だ。けどこれらのフレーズが持っている機能は、どの段階においても一定というわけではなくて、むしろ逆の意味を持ってくることがあって、ちょっと厄介。

新参オタ議論の場合なら、これらが果たす役割はリセットボタンだ。つまり、あれがいいとかこれがいいとか喧々諤々議論をして、ひととおりの意見が出揃ったかなと思ったら、「でもやっぱり価値観はひとそれぞれ」とか「いいものはいい、というシンプルな話です」みたいなお定まりの台詞で場の収拾に入る。けど熟練オタの場合には、ひとがそれぞれであるとかいいものがいいというのは前提にしかならないわけなので、リセット効果が無い。つまり「ひとはそれぞれだが、価値観を共有しない他者との関係上で、どこまでなら交歓接点を拡げることができるのか」とか「いいものはいいが、その良さはどこまでがユニークなパッションで、どこからを有意なコードとして取り出せるのか」というように、架橋工事のスタートボタンとしての機能を果たす(たとえばー、そうだな、「UC 史観が食い違うガンオタ同士が相容れることは決してないのだが、それをわかったうえで意義のある議論をする努力」というかんじか?)。

オタ的にどっちがおもしろいのかっていうと、それは当然後者ということになる。砂山作っては崩すとか、積み木を組んでは崩すとか、そのてのあそびは子供による子供のあそびといってよく(「砂山に蹴り込むゴム長」や「積み木の城に投げ込むブロック」の役割に「ひとそれぞれ」とか「いいものはいい」とかを使うわけだ)、オタとしての遊び方は「いい歳こいてんのに子供のあそびをやる場合の態度」で臨むべきだ。つまり、砂上の楼閣のうえに逆さの空中城を作ろうとしてみたり、空中に積み木を積み上げようとしてみたりという、より絵空事に近いものにどこまでディテールを持たせられるかというチキンレースだな。

とはいっても、なんでも高度化しすぎると裾野が痩せ細って断崖絶壁になっていくというか、ドグマで武装した一部のエリート及びその予備軍はそれでいいとしても、そんなものについていけないし興味の方向もそこではない層のほうが厚いのは自然なことなので、やっぱりリセットボタンとしての「ひとそれぞれ」「いいものはいい」は大事だよねーという意識は持っておきたい。ていうか、実際子供による子供のあそびの真っ只中から、すでにオタクとして立ち上がってくる層みたいなものもかなり居て、彼らにしてみればそれこそが自然の行いというか。で、時代時代にそういうリセットボタンが利きやすいメディアが、その年代のオタクを培ってゆくんだろうね。いまの 20 歳くらいだとアニメゲーム漫画以外にお笑いとかもジャンクサブカルとして組み込まれてんのかなー、みたいな話を、以前 K さんとした。

お笑いがジャンクサブカルとして優秀ってのは、「東京には、大してうまくもないし味もそんなに変わらない無数のラーメン屋を食べ歩きして、あれがいいこれがいいとか言うのが好きなひとが居る」みたいな話題とのリンクから。レギュレーションが設定されていること、そして差が僅かであることがむしろ重要で。その微差を体感し、シーンに参画してゆくという感覚によって熱中感が作られるのだろうなーと。そのうえで、お笑いとかだとリセット機能が強力そうだし。ごちゃごちゃ難しい経路とか考えすぎて脳がオーバーフローしてしまっても、とりあえずヒヨコの「おもしろい」「つまんない」鑑定士さえこなせていれば最低限ゲームには参加できてる感じに。