matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

オタ関連メモ

散弾銃的に的を外しているであろう妄想断片各種。前後したあれこれ(全体としてちょっと前のもの)なので既に終わった話の準備段階や経過や、そもそも間違っている認識も多々ある。

  • オタ vs サブカルの対立の実体は存在しない(註:これは現時点でもそう思っているし、またこの認識は変わらないだろうと思っている)。理由はいくつかあるんだけど長くて面倒なので省略。ただ「オタ vs サブカルという対立構図は話のネタになる」という合意が取れているというだけの話だろう。ていうか再三の話だが「自分が見たいものしか見ないひとたちの饗宴なのでコンフリクト発生」が要点ではなく、「この件については話をすること自体以外に意味はないと全員わかっているので、話を継続させるためだけにあえて見たいものだけに視野を絞ってロールプレイ」みたいなメタあそびが行われていそうだ。
    • なんというか、「どういう世界観だったら「vs」があったことにできるか」という架空戦記モノというか、そういうバトルだよな的な。ある種の世界観闘争。史観洗脳ゲームってほうがパンチはあるのか。だからつまらないとかそういうことではない。
  • 文化系におけるオタの分類とか分析的な自己他己言及は散々多方面から為されているけど体育会系で地味だったひとの悲哀があまり語られてない気がする。特に投げっぱなしっぽい記事上で「文化系には体育会系へのルサンチマンが云々」みたいなことが書かれてて、これべつにたぶんだからといって体育会系は幸福だったみたいなニュアンスでは全然ないんだろうけど、雑多読みベースでひたすら反論を応酬しあうのが好きなひとたちへの仮想苛立ち材になっちゃいそうだなあとか要らぬ心配をする。ていうかそういうのはむしろメジャーストリームで語られてるので路地裏まで降りてこないってことなのかな。まあ部活だの属性で云々というのは血液型診断みたいなもので、ある程度の指標にはなりつつも(「予言は運命でなく、それを信じた人間の言動により結果的に成就される」みたいなアレ)、標準的ななにかってよりはスピード優先の前提構築なんだろうけど。というわけでそろそろこの局面形勢自体の不自然さを指摘する類のエントリがソーシャルブックマークによって(わざとらしく!)掘り起こされる頃合かなと思っている。
  • ネットごしのオタや非モテ相手に説得や説話を試みる心理というのは新手の VNI 的メタ遊びであろうか。彼らは彼ら自身に手を差し伸べようとしているようにしか読めない。彼らの仮想妹や仮想メイドがサイト内に居れば VNI だが、逆にいえば彼らの仮想対話相手がサイト外にあるというだけの違いしかない。まあ飢狼伝説(I)とスト II くらいの違いはあるかなあ。
  • 「自分が信じている価値を絶対視したいんだけどそれができないこともわかっていることによる苛立ち」がストレスとして場に強くドームを成型しているんではないかという感覚はある。考えすぎかもしれないが。
  • 「オタかサブカルか」みたいな二項分類に無理があるのは当然として、しかし強いて分類すればどちらかという考え方自体はアリだろう。けど個人的にそれよりはもうちょっと引いて見たほうがいい気がしている。下を何段かすっ飛ばすが、まず「(彼・彼女・私)はオタである」とか「(彼・彼女・私)はサブカルである」というような属性付けによるキャラ立ちを必要としているひとたちがあって、そこから横なり上なりに「属性付けからある程度自由、または自在」みたいな界面があると。つまり「そのひとがオタでもサブカルでもないことになったとしても、そのひとのキャラの意味なり存在が変質しない」ようになる状態。なんだろなそれはと思っていたが、タレント?みうらじゅん氏はタレントってことでいいんじゃないのか。
  • サブカルとオタを水と油と仮定した場合に、不思議ちゃんには石鹸的な界面活性作用を期待できる、のでこのような場においてうまく立ち回れる不思議ちゃんは貴重だし必要、という認識はあって然るべきだろうロールプレイヤ的には。
  • オタ恋愛観について「人生は皆局地戦なのだからゼロから標準的なモテを目指そうとするのは馬鹿げている」で納得したひとたちでもオタ分析については無理矢理自分的な標準化を試行しているのはあたりまえだが興味深い。そうしないと議論のテーブルにのっけられないわけだからしょうがないというか(その点でいうと「オタク vs サブカルなどない」というのは文字通り話にならない、ので、オタク vs サブカルについては「ある」ということにしたひと以外話をしない)。結局現代のオタ性とはコミュニケーション上にしかないということか。いや逆で、コミュニケーション上でしかオタ性を発見しようとしていないという問題なのかも。このへんにはおれも反省点や自戒が多いな。
  • あとこれはなにか根本的なおれの認識の誤りかもしれないのだが、なぜ多くのひとは「オタというのは屈折した人間がなる」と思っているのだろう。オタが屈折しているというなら非オタも十分屈折しているし、非オタが屈折していない程度にはオタも屈折していないのではないかな。いまだにオタは少数ではあるかもしれないが、いまさらオタが特異だとはいうまい。なにをもって屈折っていうんだろうな。まっすぐなものなどこの世にはなかろうから、誰でもどこか歪んでるわけだけど、なにか思い描く理想形の歪みを直線と仮定して、それと似た形になってない歪みは「まっすぐじゃない」と定義するわけなのかな。だとすればかわいそうだな。前提がいまひとつ実感できない。まあオタ議論などもともとオタとも関係ないところで繰り広げられているメタ議論(とにかくオタクの話をすることで安心したいひとたち?)なわけだから、そういった話題の中に実感などはないかもしれないんだけど。まあこれは単に言葉尻の問題に過ぎないかな。気にするほどのことでもないことを気にしていては歪む。脊柱即湾は御免だ。

ところで「便所の入り口に掲示してある男女のアイコンはわかりやすいけど、アイコンのかわりに男性器と女性器のでっかい彫刻がそれぞれの入り口にデーンと展示してあったら、どっちに入ったらいいかためらうよな」という話をした。セクハラかしら。

  • (追記)「「オタクとサブカル」を語ってる連中が全員サブカルで、なんだこれ結局サブカル連中のサブカル話じゃねえかとゲンナリした」等々の件について語り合うってのはどうすか。
    • ↑これを「ほらオタはサブカルをディスってるじゃん!」みたいな流れと捉えられてもかなわんなあ、というオタの擬似乙女心(MOE-circuit)は複雑。