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最近のアニメ

071213 | Assassin’s Creed

どうも最近ツンデレ状況を描いたアニメに対してイラッイラッとくる場面が増えたようなきがする。具体的にいうと「灼眼のシャナ」と「ご愁傷さま二ノ宮くん」が、見ていてときどき不快だ。シャナのほうにはまだもうすこし興味があるのでそれでもまだしばらくは見るつもりだが、二ノ宮くんに関してはそろそろいいかなという気分がある。いやキャラにむかついて見るのをやめるということではなく、トータルで既に視聴モチベーションはゼロであり、逆にこのイライラを片づけるまで一応見ておくかというような気分だ。

  • ツンデレ状況に対するイライラと書いたが、シャナと二ノ宮くんではイライラの対象が違う。二ノ宮くんの場合ツンデレキャラ自身の態度が不快源で、シャナの場合ツンデレに対する主人公の態度が不快源になっていて、この二つは問題意識としては全然違うのだが、まあツンデレ状況に対して矮小化すれば「おまえはっきりしろよ」の一言に尽きる。
  • 苛立っているのはそれぞれの規範意識を盾にしたいいわけがましさだ。二ノ宮くんのお嬢様は自分の規範に対していいわけがましく、シャナの主人公は社会の規範に対していいわけがましい。そういうのと折り合いを見つけつつやりたいことをやるのが中二アニメのキャラクタがやるべきことだろうがと思うのだが連中はうまいことやらんのでもどかしい。シャナの主人公の常軌を逸した鈍感さはある意味 School Days の主人公にも通じていて、あいつ状況次第では首が飛ぶぜと思わんでもないが、たぶんそのへんはだいじょうぶかなーよく知らんけど「存在の力」とかでどうにかできそう。ところで「存在の力」てのは(まあそのてのアイディアはむかしからあったけど)現代状況下ではなかなか皮肉の利いた中二概念として働いているのでグッドだと思ったりするが余談。
  • ツンデレのなにが高度かというと、ツンデレは当事者でなく客観者がもっとも楽しめる状況だというあたりだ。ツンデレキャラは自身がツンデレを演じている限りフラストレーションが解放されずハッピーにならない。ツンデレに振り回されているほうもハッピーではない、というよりそこに留まるかぎりよりハッピーな状態に近づけない。だからツンデレ状況は、当事者として考えた場合には、さっさと問題をつまびらかにして解決できることは解決し、誤解があればそれを解き、情報に偏りがあればそれを正し、新たな状況へシフトさせるべき途中段階でしかない。とはいえそれを端で見ているぶんには甘酸っぱさ的ななにかとして楽しむことができるから、作品では往々にしてその状況が長引く。なんだそのー、作中の人物のハッピー曲線と、視聴者のハッピー曲線が一致してないかんじ。登場人物がハッピーになったー、だからこの話はハッピーエンドー、みたいな単純さではない、という意味においてだ。愛すべき停滞感のひとつというか。いやちょっと違うか。あとで考え直そう。

ところでシャナは第一期も見ようかという気分になっていて、それはべつに特別おもしろいからというわけでなく、まあラノベに直接着地するのがやっぱりむずかしそうなのでまずはアニメからという意味でなのだが、どうやって見たものかな。ふつうにメディアセンタで見るのがラクでいいけど 360 忙しいし、録画を EM ONE 向けにエンコードして電車で見る…のはちょっと敷居高いんだけど、実質的にとれそうな時間てそのへんにしかなさげでもあり。