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朝の珈琲果つれば

日曜朝っぱらから EM ONE 片手にカフェに出てひまをつぶす。インターネットは割合平和。暮らしもそこそこ平穏。今日も晴れ。日差しは強い。元ヤン主婦ズが窓際でおしゃべり。親族連れの中国人ご一行様がまじでうるさい。そういえば昨日の夕方からこっち耳に入る喧噪はガイジンの声ばかりだ。そんな中では元ヤン現 DQN 主婦トークの聞き流しにはいっそなつかしささえ覚えかねない。旦那の愚痴から姑の愚痴から子供の愚痴から生活の愚痴までありとあらゆる愚痴をしゃべるのが楽しそうだ。そんな苦痛でもないのだろう。いろいろあるけどぜんぶまとめて人生というかな。考える前に納得している。こうあるべくしてある現場主義的な生き方。それを生命力というなら、生命力のない側の生き方というのは、なんなのだろうなー。どうやったらそうなってしまうのか。といっておれは彼らの側にも彼女たちの側にも行き方がわからないのであり、生きるべくして生きるよりほかに生き方はないなとしかいえない。

旦那やこどもやその他のツレが席に合流し、ワイガヤと話題が分散しつつパソコンとか携帯電話とかの流れになり、そのあまりのリテラシの低さに苦笑しつつも、それが間違いだなどとはまったく思えないし実際に彼らは正しく、ある種中世的な気分に浸ったりした。彼らのシステムに対する捉え方、考え方、そして信頼性という概念に対する柔軟性は、オタ的な驚嘆に値するほど最適だ。それがそういうものであるかぎりそれはそういうものでありつづけるし、それがそういうものであると認識するに至った経緯は間違いのないことだ。モノはモノでありつづけ、それが信頼の対象になることは決してない。人間は人間以外を決して信じようとはしない。人間の居ない世界を見ようとはしないし、または、知らないどこかにも人間が居てほしいと願うのだ。その本能を、DQN のひとたちは色濃く生き方に重ね合わせている。だからこそ社会の中核を為しているし、中核以外では生きられない。彼らの世界観において世界を拡げるということは、中核を大きくするということだ。そこで我々と食い違ってくることになる。

あといまどきの DQN のひとのアニメ知識の豊富さには驚かされた。若いもんはふつうに深夜アニメみてる。彼らメディアに対して基本的にノーガードなので、その自意識形成に ON の時間帯に放映されてる番組の比率がストレートに反映されてるきがするな。このフラットさは予想以上だ。ガテン系家族は基本的に早寝だが、そっちのほうは子供向けアニメに詳しい(あたりまえか)。クレしん知識とかポケモン知識とかおれなど足元にも及ばない。ポケモン映画の CG のケレン味の話とか、まあ用語は雑だけどおれがなかなか他オタと共有できないような話題が普通にテーブルに上がっていてうらやましくすらある。あとクレしん映画のどれが泣けてどれはイマイチ的な話題で盛り上がったりとかしていた。旦那のほうはそこいらへんの話題にはコミットしない。DQN の世界ではいまだ男は泣かないものであるという不文律が強いからか。ストーリー分析も意外なほど水準が高く、「ちゃんと見てるなー」と感心する。というか逆で、これこそが普通なのだ。このように健全なやつらはなにもしなくても普通にこの水準まではいくのだ。このように健全でないオタがこの水準に到達するため、あるいはそれ以上の領域に到達するために、得体の知れない回路でアニメを切り刻むわけなのだな。普通はそんなことはやらないし、やる必要がない。しかしおれはそこをあえてやりたいし、やらなければなるまい。