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過去や未来と向き合って暮らす

最近あそびにいったひとの家で、家族や友人、自分の子供の頃の写真などをベタベタ壁にはりまくっていた部屋があって、なんだかちょっと久しくそのてのひとの部屋を見ていなかったので感銘を受けた。おれ自身はというと、元々壁とかになにかを貼る習慣がまったくといっていいほどなく、引越し直後などに「せめてカレンダーくらい貼ってみるか」とか思ってみても、貼ったことを忘れて一切メンテしないので、次に引っ越すまで一枚もめくらずにそのままゴミ袋行きだったりとかする。なにかを貼るというのは、それを見る(逆にその貼ったものに見られている)という意識があればこそ意味のあることで、そしてその意識のうえで暮らしているひとたちのことを、ちょっと考えてみようと思った。これは結構大事で、かつおれに足りないことなのかもわからんなというか。

その部屋を見たとき、全然違うんだけど、なんか「「太陽を盗んだ男」のキューバンの部屋みたいだな」と思った。キューバンの部屋には家族の写真など一枚もなかったが(キューバンの家族関係は作中まったく描かれていない)、かわりに原発襲撃計画のために撮ってきた現地写真や図面、新聞記事の切り抜きなどが貼ってあったかと思う。たぶん全然違っていてもそれらには、結果として似たような効果がある。キューバンは写真や図面を見ながら、自分がこれから起こす行動、自分の未来を見るはずだ。そこに幻視できる光景に現在を近づけていく。自分の部屋の壁を眺める時間が、そういう意思を強化する。対して家族や自分の過去の写真が貼ってある壁は、これまで歩んできた道、自分の過去が示されてあるはずだ。そこに示されている道のりを歩いてここまで来た自分が、壁から目を逸らしたあとになにをするのか。突飛ではない連続した自己としてどれを選ぶのが自然か、あるいはどこまで飛躍できるのか、いつでも確かめることができる。

なんだかなーおれにはそういうのが全然ないんだよな結局。いつまでたってもなにをやってもいい。基準や連続性、目標とか理想がない。適当にやり過ごして、やり過ごせなくなったら死ぬんだろうなーというかんじで生きている。それが悪いと全然思っていないことは、こういうふうに書いてみても焦燥感が湧き上がってこないことからもわかる。とはいえ、そろそろ落ち着きどころを見出さないと人生がつまんなくなってくるのかもしれないなという意識はあるので、いまさらだがなにか壁に貼るような習慣をつけてみるのもいいかもしれんな、とは思っている。しかしそれをやったところで、おれが壁に目をやることが果たしてあるのかどうかという話に落ちてきてしまうな。たぶん見ないんだよ習慣として。おれは四六時中見たいと思ったものと、無視すべきでないと思ったもの以外を意識していない。壁が風景として目に入らないのはその結果だ。オタクとしての本能にも近い。部屋に居ても、いつも画面か紙面か対象物を見ていて、その枠外は全然見ていない。アプリケーションを基本的にフルスクリーン化して使いたい性分も、たぶんこれと無関係ではない。なにを見るともなく視線を漠然と漂わせるっていう、そういう性向のほうが、時勢としても、単純におれの今後に対しても、それなりに有利に働いていくのではないかと思うのだが…。