ラジオクリルタイ収録見学 2
昨日(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20070803#p2)からの続き。
- 物語が必要なひとたちと、不要な人たち。
- スクールカーストとかリア充とか。
- おれは「おれの学校にはスクールカーストとかなかったよ」派なので、スクールカースト問題で盛り上がろうという動きには懐疑的なのだが、とはいえしかしそれはつまり「オタクは田舎暮らしでも苦労しなかったかもしれないけど、サブカルは田舎じゃメッチャ苦労したんだよ」みたいな筋合いでいえば、まあおれには関係なかったけどおれと同じ時代にもそのての苦労をしたひとがいるのかもですねとは思う。そしてそのような同時代の他人の苦労に後付けででもコミットしていく態度は、選択肢のひとつとしてはアリだろうとも思う。同時に、しかし現在指摘されているスクールカースト問題というのは、まさしく現在進行形で起きている現象への意識として考えられるべきなのだろうから、そうなるとちょっと態度を決めかねるなあとも思う。思い出話に付き合うことと現在の問題に向き合うことでは全くレベルが違うし、その場合現在主に語られているスクールカースト言説と向き合うべき問題とでは、ぜんぜん別物かもしれないからだ。
- 彼らの世界観によれば、ひとつの教室に所属する生徒たちは A,B,C,(D)の小クラスに分類される(D がカッコつきなのは、D クラスを含む言説と含まない言説が混在するため)。A,B クラスはいはゆる「勝ち組」であり、明るい学校生活を楽しんでいる。そして C(と D)クラスは負け組で、明るい学園生活への参画を阻害され、場合によってはいじめられたりもしている。
- A クラスの人間は少数。スポーツ万能とか成績優秀とか話題が豊富とか、ひとから抜きん出たなにかを持っていて、かつ集団生活を送るうえで問題になるような欠点があまりない。性格はおおむね前向き。B クラスは、ほどほど〜多数。A クラスほど優秀ではないが、C クラスというほどスペックが低くもないあたり。長所も短所もほどほどにあり、性格は様々。C クラスは、ほどほど〜少数。短所が目立つか、または長所が目立たない。冴えない、地味、根暗、なに考えてるのかよくわからない、居るのか居ないのかよくわかんない、などなど。D クラスは、ゼロまたは学級に 1,2 人程度。短所ばかり注目されてしまうため、元がどうであれ性格は暗くなっていきがち。
- なお、スクールカースト問題=いじめ問題の言い換え、ではない。いってみれば、いじめを(おそらくは)「D クラス問題」などという形で包括して、差異が生じて強化され流動性が低下してゆく構造をもうすこし大きな枠組みで捉えなおそうという動きとして、スクールカースト問題は考えることができるだろう。
- なんとなくスクールカースト問題というのは、「自分は C クラス以下だ」と思って学校生活を送ったひとたちこそが必要としている物語なのだろうと思っている。A クラスからすれば現役時代にでもそこにカースト制度なんて見えなかっただろうし(べつにそんな枠組みに当てはめなくたって彼らは自分の不幸を自分で片付けられるし、自分の幸福を自分で掴むことだってできるはずだからだ、なぜなら彼らは「A クラス」だから)、B クラスはこの世界観だとけっこう悪役側なので、わざわざそんな都合の悪いものに加担する動機がないのだ。
- ようするにいままで見聞きしたスクールカースト問題は「A クラスという我々を居ないものであるかのように無視して自分たちだけのキラキラ空間で青春を謳歌しているひとたち」「B クラスという A クラスへの憧れと劣等感から生じるねじれを我々に干渉することで優越感を得て解消しようとするひとたち」という文脈での「我々」、自称 C クラスのひとたちの一人称がにじみ出すぎていて、それ以外のものには見えないわけだ。なお、なぜそこで D クラスの視点を考慮しなくていいのかといえば、D クラス経験者のひとの言説は、たぶんふつうに「いじめ問題」のフレームで回収できるから。いまのところは、「いじめられて苦しんでいる(いた)」という話なら「いじめ問題」といってしまえばよいわけだから、スクールカースト問題を物語以外だとする主張は、「特にいじめられてる(た)わけじゃないんだけど苦しんでいる(いた)」という、C クラスのひとが担っている感触。まあいじめ問題を大きな枠組みで捉えなおすという意味において、D クラス経験者のひとにとってもスクールカーストという枠組みは有効だろうから、あんま「C クラスだけの問題でしょ」とまでは思わないが。
- それが不当なものかどうか、という判定に尽きるという話か。いじめとかになるとわかりやすいから無関係のものへも多少なりとコミットする余地があるけど、「C クラスのひとは漠然とクラスの中心から阻害されていました」とかいう話になると、それこそ漠然としてるのでいまいちわからんのだよな。過剰なあげつらいや暴力という話になれば、それは「不自然」だから不当だろうといえるが、注目するほどのことでもないものに対して大勢が注目しないのは「自然な」ことなので、不当さを感じないというか。まあそれはそういうものなんじゃないか的な。
- 結局あれよなー「学級以外に行き場がないひと」問題とかになってしまうわけよなたぶん。学級以外の場がないから、学級で完結しようとして、そうするといまひとつハッピーな状態になるには要素が足りず、鬱屈につながる。たとえばこれがオタの話なら、オタにはオタ趣味がるので、それがきっかけでクラブ活動の部室とか委員会とか、学外の居場所とかもありコミュニティへの参画とかもあって、べつに学校の教室が生徒生活のすべてではなくなる(なんか学級縛りが異常に厳しいとか校則ががんじがらめとかならそれができないのかもだが)。というより、当然クラス以外での活動のほうがおもしろいわけなので(学級などというものは、成績や理系文系で振り分けられるランダムなものであり、そんな偶然のマッチングで決まった面子などより、趣味や嗜好などを基準に志望したような部活や学外の仲間内のほうがおもしろいのに決まっている)、クラスはオマケでクラス外の人間関係のほうがメインみたいなかんじにすらなるだろう。同じクラスにオタ友ができればいうことなしだが、情報は補完しあってナンボなので結局ネットワークは学級の範囲に留まることがない。学級でできることって、学級内の構成員の最大公約数程度の薄く細かいことでしかないから、そこで満足できるひとってのがよくわからんのだよな。まあそれが「オタクにもサブカルにもなれないあたりの彼ら」というふうに落ちてくる話なのかもだが。立ち戻ると「他人の人生だしなあ」感。
- 一方で、スクールカーストっていうのはなかなかうまい説明の仕方だとも思っている。なんだろうか、これに近いものとして思い浮かんだのは「血液型別の性格診断」みたいなやつ。あのーたぶんおれの学校生活とかでも、わりかしスクールカースト問題で挙げられている事象と当てはめることができる箇所がなかったわけではないのだ、血液型別の性格診断で「あーけっこう当たってるかもね」と思うのと近いかんじで。そして、血液型性格診断にあてはまっていたからといって、血液型で性格が決まるという世界観に加担しようとまでは思わないように、あるあるネタで回収可能な部分適合が見出せたからといって「スクールカーストをあったことにする」記憶修正を施そうとまで思うかどうかという、個人的な問題に落ちる。その意味でいうと、現在進行形で閉塞感を覚えてるひとを回収する世界観として、スクールカーストは優秀なんだろうなというかんじか。
- なお、べつに「物語を必要とする生き方」あるいは「生きていく過程でどうも物語が要りそうだなと思いはじめること」自体は、わりとふつうなことだと思っている。ただ、ひとによってそれを必要とするしないの状況が違ってくるというだけで。オタクにはオタクのために必要な物語がいっぱいあるし、そのての物語同士の衝突もいろいろ見てきてはいる。たぶんこの世界観もひとをしあわせにしたり不幸にしたり、あるいはそれぞれの心境を強化したりするのに役立つんだろう。
まだつづく予定だけど、例によって書くのが止まってたのでここまで。つづきは明日付(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20070805#p1)で。