最近のアニメ - やはり俺の青春ラブコメはまちがっている関連
なんと略していいのかよくわからず「やは俺てる」と書いていたのだが、公式愛称は「はまち」らしい。はまちと略すために「間違っている」をひらいたかんじなのか。そこ戦略的なのか。
- おれは当初ハッキリとこのアニメを舐めていて、1,2 話をちょろっと流して「これはべつにいいや」と以降見てなかったんだけど、途中 7 話らへんからちょっと見てみるとこれがおもしろいのなんの。あわてて最初からみなおしてドハマリした。いやすごいね。大したことは起こらないし、どこに向けて投げられたボールなのかわからんけど、たいへん巧妙。
- 主人公の雰囲気がちょっと M さんぽくてすごくシンパシー感ある。うんうん、こういうひと居るよ。
- 中二病の背景の 01 が痩せたフォントなのが好感持てる。
- なんかこー、遠山えま「ココにいるよ!」を読んだときのモヤモヤ感、「いままで主人公を抑圧してきたいじめっ子がやっつけられるシーンにカタルシスを持ってくる、という描き方を読んだときにおれがスカッとするようなら、それは話もおれも等しくクソではないか」みたいな感情。そういうふうに読者として試されるのは教育的で正しいけど、なんかちょっとイヤだなと思ったことを、やは俺てるは克服しているように感じた。あれだ「ネットマイノリティのうちわりあい他者に寛容なひとには二種類居て、マイノリティであるがゆえの基本的態度として寛容さをわがものにしたひとと、政治力のなさがゆえ寛容に見えているだけのひと。前者は立場が変わっても品格を落とさないが、後者はなにかの拍子に政治力を得ると途端にその排他性・攻撃性を剥き出しにするなあと思った。」(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20071209#p2)とか。いじめっこに復讐する時、元いじめられっこがいじめの嗜虐性・暴力性みたいなものに陶酔するようなら、そいつの復讐にはなんの正当性もない。それまで描かれていた「キツいいじめシーン」と同じものが立場を変えて描かれているだけだ。もちろん復讐は正当性を問われるべきものでもないし、いじめっこといじめられっこの人間性に違いがなくても、キャラクタ的にはべつに問題ない、むしろ「彼らは等しく人間だ」という話なのかもだが、読んでるおれが前者でフラストレーションが溜まって後者でスカッとするようならそれはストーリーに引っ張られた感情だけのことで、おれに理性はないのかよという気分になり陰鬱になるわけだ。そして、やは俺てるはそういうものを越えてくる。暴力というオプションを採れないために、というエクスキューズが付いて、暴力に逃げることがない。思考停止でも諦めでもない。いうなれば、オトナだ。すばらしい。これが見たかった。
- リア充を無視できない非リアをめぐるドラマとして「リア充をやりこめてスカッとする」みたいなみじめな成分をだいぶ抑えめにしているのが清々しくて、そこがすばらしいのだけど、それでもまだ完全に払拭はしていない。この方向をもっと追求していって「リア充をやり込めることによりスカッとする成分はゼロで、そういうのと関係ない非リアであればこその美しい感情のカーブみたいなものが描かれる」みたいな境地に辿りついたフィクション、みたいなものを夢想するし、期待する。原作読んだら描いてあるのかもしれないな。
- それにしても、7 話の、これまで延々展開してきたものが花開いた感すばらしいな。
- ラノベ主人公のべつに全然おもしろくはないうまいだけの饒舌台詞、これくらいのダウナーテンションで垂れ流すぶんには全然いけるわ。この平熱感に到達した時点から、こういうものがおれにも消費できるものになったと感じた。
- 文化祭回、たぶんこんな人間が実際居たらおれは積極的に敵対することでかんたんに済ませてしまうと思うが、ストーリー鑑賞者という上から目線で全体を俯瞰するぶんには、悪役女の立場にはわりと同情の余地が多いように思えるので、こいつがハシゴ外されっぱなしだと可哀相だしそれなりの着地点を準備されるべきという判定になった。そして「このての話の主人公としてはたぶん異常に正確に空気を読めすぎる、というか自分の至近距離以外については教室を完全に俯瞰視点で見ることのできている」本作主人公の立っている位置は、おそらく 20 代中盤以降のストーリー読者の視点ときわめて近い。いやほんとこの主人公はすごい、いや、すごいからなんだというかんじの方向でだが。主人公の 3m 頭上からストーリーを見ているというより、主人公の肉体を 3m 頭上から眺め、そしておれの傍らに主人公のゴーストが漂っていて、縦の身体への感情移入と同時に横の感情共振が発生するような不思議な感覚。泉こなたよりもおっさんの容器ポテンシャルがたかい。