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所持数上限 1+4 枚のリアル

細かかったりむずかしかったりすると違う話になるが、ふつうの暮らしのうえで金(貨幣)に対する基本的な考えは以下で問題ない。

  • 金の機能は、大概のものと交換可能であるという大多数の合意を土台にしている(それに合意することによって、人間は金をベースとした信用社会へ参画してゆく)。
  • 金は最終的にそれを発行した組織(国家や軍閥など)によって保障されている。
  • 金はいまだ全能ではないので、いまだ金と交換できないものもある(愛、寿命、カウボーイの魂など)。だけども、細分化すれば部分的に買うことは可能(まとめ売りはやってないものでも、バラ売りなら個別対応してくれたりする)。
  • 金は金同士でも交換される。そのとき特に交換妥当性を逐一検討しなくていいという考えは、どういう形態に変化しても、値さえ同一であればその交換価値が変わらないという規則が前提となっている。

ところで、最近「敵は海賊」シリーズを読んだ関係で、リアル(硬貨)の価値ってなんだろう的なことを考えたりした。自販機のコイン投入口に 100 円入れたとき、素敵な音がしたら一日気分がいい。そういう余剰の効用について。紙幣は味気ないが、硬貨にはそれぞれの味がある。しかしべつにそれ硬貨でなければならないということでもない。歩幅も合って完璧なタイミングで Suica 置いてスパーと改札を抜けられたら気分がいいとかそういう感覚もある。それがモノであって身体性が伴っていればなんでもいい。ただ長く使われていれば長く使われていただけ、その触感が(メディアとして)追求されるというだけの話だと思う。10 円玉自体を使う駄菓子屋パチンコゲーの手触りとか。やたら投入音がかっこよく鳴るようになってるジュークボックスとか。

あと近年でいうと、当初それほど機会的な価値が高くなかった電子マネーの取り扱い可能な店舗が増えてきたことによって、自販機に無視されまくっている五円玉と一円玉の機会的な価値の低さが浮き彫りになっていて、なんというか、ある種「(銀行の両替機などの一部を除いて)人間以外のメディアがその価値を保障しなくなった」それらの硬貨だけがリアル(←「それが僕のリアル」と同じ韻で読むところ)みたいな気分が高まったかなあという気がしている。煙草の自販機は受け付けない。角の煙草屋のおばちゃんは受け取ってくれる。機械の知らない人間同士の秘密取引。

電脳コイルの小学生たちが硬貨をもてあそんでるところ見たことないけど、あの世界ではお年玉も電脳マネーで渡すのかな。