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感動に要する強度

誰かが感動するなにかを作ることのできる人間が、そのなにかによって喚起された誰かの感動を嘲笑う可能性は常にある。たまたま発信者と受信者に双方向性が保障されていないという、それだけの偶然によってものすごく膨大な「プギャー」が、実際には発せられず、伝わっていないだけの話だと思う。もちろん世の中には稀になんというか人生に真摯なひとも居るので、自分の作ったものを見て感動した人間を嘲笑わない立派なひとも居るだろう。またはプロとしてそういう態度を表に見せないとか(実際職業的な自負によってそれを律しているひとは多そうだ)。けど世の中にあふれる表現の大部分は、やはりそれほど立派でないひとたちによって作られたものなのだろうと思う。確率の問題だ。

というようなわけで、本来人間が被造物を見て何かに感動した場合、その感動が造物主に嘲笑われる可能性を踏まえたうえでそれを表明する必要がある(「おまえはおまえの被造物をどうとでもできるが、おまえの被造物から生じたおれの感動はおれのものであって、おまえにとやかく言われる筋合いではない」「被造物に感動を覚えることは、造物主を尊重することと同義ではなく、また自分に感動を与えるような造物主の被造物たらんとする心理は鑑賞者の持つ正当な(自然な)態度ではない気がする」そのほか)と思うが、だからどうしたといえばべつにどうもしない。ともかく、感動は自分で保障すべきものだとは思う。自分の感動の保障を他者に求めるのはオタクのとる態度ではない気がする。そしてもちろん、造物主にあざ笑われたからといって、自分から生じたはずの感動を投げ捨ててしまうのも、なにかの間違いだと感じる。