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オタ感覚今昔

麻布十番 | 080419

現代若オタ向けにアレンジされたなぜオタ打ちの名手である W 氏の web 日記には自アン各界の注目が集まるばかりか、なぜオタの伝統を知らないようなイノセントな若者に日影の愉しみを刷り込む役割すら期待されて当然なのだが、A 氏がそこのトラップに引っかかって一時的に心が折れた的なことを Twitter に書いていて興味深かった。なぜオタが己の身に当てはまりまくるところまでは受け取り方として正しいのだが、そこでへこむあたりがオタク新世代ならではかなという。旧世代オタは、なぜオタの窪地に落ち込んでも、べつにへこんだりはしないのだよな。

そのあたりの漠然とした感覚を言語化すると以下。

  • 旧世代オタには、これまで「こんにちはクズでーす」とか、悪評をよそからわざわざ買ってきてでも自分とこに引っ張ってきたという経緯があるわけなんだけど(←用語「オタク」自体本来他者からの蔑称だったのが、結局オタクの自称に置き換わった経緯などみてもわかるとおり)、新世代はひとから「こんにちはクズども」とかいわれるとふつうにへこんだり逆ギレしたりする。という感覚は、Key あたりの純愛エロゲーが流行しはじめたあたり以降漠然と感じてきた。かんたんにいうと、旧世代にとって自虐は自虐でありながらも自虐ではないわけなんだけど、新世代は自虐をベタに自虐と解釈する。
    • これが他者からの侮蔑だったりするとさらに顕著で、メディアでオタク批判をしたひととかが注目を集めてしまうと猛烈なバッシングが起きたりする。べつにいいのになーわかってないひとがわかってないことを言うのは当然なんだし、みたいなかんじには処理されない。総洗脳時代には総カウンター必須じゃよ的な感覚なんだろうか。
  • NHK「真剣 10 代しゃべり場」でもそんなふうな回あったよな。「オタクである僕を認めて」みたいな、なんというか、(正規の)手続きにこだわってる印象があった。若くてパワーがあるうちには、手続きとかどうでもいいので、ナァナァででも相手を「認めざるを得ない状況」に追い込んでいくほうがラクなんだけどなーと、旧世代的には思う。ようは決して他者の調子に合わせず、自分たちの調子でしか動かず、他者が容認し関与しようと態度を軟化せざるをえなくなるまで自分たちの流れを自閉的に拡大させてゆくことによって、他者を「こちら側」へ取り込んでしまう、ということだ。
  • 「おれはおれを承認する。おまえらの承認は不要。おれらはおれらの遊び場を作る。おれらを承認しないなら、おれらはおまえらを承認しない」というかんじで、わりと反骨的にオタクの場を作ったと思うのだが(←これも中毒が過ぎると単なる「権威否定という依存症」になってしまうので良し悪し)、新世代からすると結局そうした旧世代オタクが作った遊び場で遊ぶこと=オタクだったという部分もあって。そういう新オタからすれば、「世間」も「オタクの場」も同様に承認を前提として利用できる「こちら側ではない場所」で性質に違いはない、というふうになっていったのかもなという気分はある。
  • そういった旧世代の気分自体が世代交代と共に権威としてしか機能しなくなってしまったのかなーというか。そこへもってきて最近のオタの既存権威への弱さとか、あと男オタ趣味の市場への取り込まれっぷり(需要供給の融和は相互に泥沼から足を抜くわけにいかない状況を作る)が絡んで、どうにもフットワークを軽くするわけにもいかなくなってる感。
    • ちなみに「都会はどうか知らんけどオタクとヤンキーは田舎じゃ仲がいい」話には、このへんの感覚も絡んでいたと思っている。つまり「学校や親にとりあえず反抗する」のがヤンキー、「学校や親に反抗はしないんだけど微妙に言うことを聞かない」のがオタク、という。はみ出し方の違いがあるんだけど、似たもの同士ではあった。
    • まあさらに遡って「カウンターカルチャーとしてのオタク」をそのまま続けていくのは是か非か的な筋合いとかもあるんだけど(←ゲーオタの場合でいうと、ファミコンとかゲームボーイで物心つけたあと中二的にゲーセンとかセガに行って次世代機の波も来て PC ゲーの革命もあり、一段落しておっさんになったあと元不良息子が NDS とか Wii に帰宅するとき、そいつはどんなツラで己の半生を取り繕うの?みたいな話。まあおれの場合でいうと最初に買ってもらったゲーム機はコモドール社の MaxMachine だしその後も MSX2 だったりセガ mkIII だったりして、全然ファミコン経由せず家庭用機オタになっていったという経緯があって、あんま自分の気分としては体感できないところではある)。

あとここでいう旧世代の範囲だが、だいたい 90 年代以降に物心つけたあたりを想定している。それより昔については、オタク人口も違うだろうし、あるいは世情に対するオタクのありようなど、また事情が違ってくると思う。またおれにはオタクであることによる迫害など受けた経験がないので、それと違う立場の気分についてはわからん。世代論は簡単だけど世の中の実際とはリンクするものではないという話もある(たぶん旧世代にもオタクとしての承認願望を主張するひとはいたしオタク批判者へのベタなバッシングもあったよね)。誰がどういうストーリーを選んだか、またそれは必要だったか、みたいな話かと思う。