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ネット疎通雑感

たぶん何度か書いたことの繰り返し。ネットを「場」や「空間」などと喩えてみるが、それはネットに既成概念を持ち込むことで大雑把な理解を促進しようとする比喩であって、実際にはネットは場でも空間でもないわけなので、場や空間にありがちの特性自体がネットに対しても正しく当てはまっているわけではない。ただし、その幻想を共有している者同士は、場や空間的に振る舞いを擬動しあうことで、まるでそれが場や空間であるかのような感覚でコミュニケーションができたりもする。けどそれは、あくまで彼らが持っている幻想が規定する性質に依拠したコミュニケーションであり、ネット自体の特性というわけではない、はずだ。

もうちょっと噛み砕く。実体としてのネットというのは機械と回線(と電波)の集合体だろうけど、本を指してまずそれが紙束であることを第一義と捉えるひとがあんまり居ないように(それはやはり情報だとか物語だとかとしてまず理解される)、ネットというのは情報疎通のことだという筋合いで話を進めよう。たとえばネットはネットなのでそこに距離はない。温度もない。空気もない。情報は飛び交っているが(信号としてなら話は別だがその解釈されるべき意味としての)情報自体は当たり判定を持ってないので接触も衝突もしない。もちろんそこは場でも空間でもない。いま「そこ」と書いたけど、指し示せる対象でもたぶんない。けど、距離はなくとも距離感はあり、確かな温度が感じられ、空気が支配していて、情報が接触したり衝突したりしているように見え、「そこ」と指し示せる場や空間であるかのように存在している、ように錯覚することは可能だ。で、ネットを暮らしの感覚でそのまま使おうと思ったらこの錯覚をフル活用すればいいわけだが、その場合暮らしにないネットの利点は使われず、また暮らしでは当たり前にできることがネットだとうまくいかなかったりして、たぶんその体験は暮らし未満のバーチャルなものにとどまってしまう。ネットをネットとしてフル活用しようと思ったら、ネットに対してはやはりネットなりの仕様に沿った世界観が必要だろう。ということになるが、じゃあそのために最適の世界観とはなんぞや、というのがいまだよくわかっていない、ような気がする。ブログ論壇とかで戦われているような議論を注意深くみていれば、そこにヒントが隠されているのかもしれない。モヒカン族とかもひとつのやりかたかもしれない。けどそれで決まったわけでもないだろう。結局コミュニティの豊かさはプレイヤのパフォーマンスにより醸成され、プレイヤのパフォーマンスはコミュニケーションの仕様によって規定される。ようするにネットサービスごとにまちまちということだ。表出しているものを追い続けることと、ネイティブにはどうであるのかという探求の両方が必要なのだろうな。けど面倒だし、だいいちネットを必ずしもフル活用したいわけでもないのだよな。というあたりで澱んでいる。