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「根拠のない自信」の根拠は、なぜないべきなのか

劣等感ゲームや優越感ゲームに陥らずにすむよう最低限保証されてあるべき、なんというか「自分という生命なり知性なりがここに存在すること自体」に関する自信については(これには自分と相対する相手が神でも超越者でもなく、暴力なり権力なりといった同レベルの力を行使しなければ自分の存在自体を揺るがすことができず、またそうしたところで過去や存在をかき消したり書き換えたりできるというようなことはない、という確認も含まれる)、なるべく最小単位のサイクルで循環されるべきものだろうと思える(←万物は流転するのであろうから、「固定」という考え方ではうまくいかないと思われる)。それを核として広がっているその他の自信サイクルからも閉じた循環系であるのが最上。永久機関ともなると完璧以上だろうが、それはそれで問題も起こりやすい(理屈のうえで無理が出る・バランスが狂うと無茶なストレスが自意識の殻にかかりかねない)。まあでもこれ自信というのは違う言い方なのかもしれない。自己承認とかそういう名前なのかも。

オタなり人間なりをやっていくうえで必要な「自己」の殻の外側は常に「自分以外」で充満しており、「自信」の経営がうまくいっているというのは、その殻の内側と外側の圧力が均衡している状態だ。この均衡が崩れるとよくないかんじになる。自信が少なくなりすぎると殻の内側まで外部が侵入してきて思うように操れなくなる(劣等感ゲーム)。自信を過剰に求めすぎると、まず具体的根拠を外部に探しはじめ(ここまでは特に問題ないのだが)、そして見つけた取っ掛かりに際限なく依存しはじめる(こうなると優越感ゲーム)。まあ劣等感ゲームにせよ優越感ゲームにせよ「自信がない」始動の問題であって、「自信がありすぎる」始動の問題はまた別にあるのだが、ここでは述べない。あと「優越感ゲーム」というとなんとなく自信過剰っぽいけど、実際には「自分よりも劣っている(はずだと自分が思っている)存在」へ依存することで自分の立ち位置を確認せずにはおれない状態であって、いわば「自信餓鬼道」とでもいうか、ともかく欲望があふれているわりに(それがゆえに)充たされない状態といえる。

で、なぜこうした「最低限の自信」に対する「根拠のない自信」という呼び方が妥当かといえば、たとえば仮に「外部に根拠がある自信」とかだった場合優越感ゲームに陥りやすくなる。また仮に「内部に根拠がある自信」とかだった場合、それが本当に自信の根拠になりうるのかどうかネガティブに検証しつづけた結果痩せ細って消えてしまう場合があり、こちらは劣等感ゲームを抑止できない(特に劣等感ゲームは内向ループ無限大だし)。事実がどうであれ乱暴に「根拠などない」と言い切ってしまうというのは、これについてはルーツ探しなど無駄だと表明する態度といえる。また「根拠がなくてもよいのか」という話でいえば、もともと人間は生まれる時間と場所を自分で選べず、親の都合で「産まれてしまう」ものなので、その自分が存在してしまっているという大元の責任を根本的には取れないし、自分自身にその起源を求めることもできない。また自分の存在はそれがどのようなものであろうと、開き直って認めてしまうしかないものである(認めようと認めまいと存在しているものだけが、承認するに足るものともいえる)から、そこに「自分で準備した根拠」が正確に当てはまることが原理的にないと考えればよいか。

とはいえ、これはあくまで「最低限の自信」の領分に限った話であって、最低限以上の領分にある自信の話であれば、その根拠はなるべくあるべきだろう。それも外部に。でないと、それを通した他人とのコミュニケーションを(良かれ悪しかれ)媒介しえない。「そこに関して他人となにかを共有する必要がない」から「根拠がなくていい」という話で、そこから一歩でも出るのなら、他人と遣り取りできる性能は少しでもあったほうがいい、だろう。でないとそれを通しての他人からの理解は得られないわけだし。